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第1回 楽園に「尺度」はない!(資本論-MMT-ヘーゲルのトリニティ)
以下は「資本論を nyun とちゃんと読む」の序文的なものとしてとして書いてみたものです。(2023.2.03)
が、発展して note マガジン「資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の第1回を兼ねるものになりました。「ちゃんと読む」と並行して進めるプロジェクトという位置づけ。(2023.2.12)
資本論とMMTの論理は同じ?
これに気づいて三年くらい経つでしょうか。
これをどうやって表現するかが問題だったのですが、こんな感じで論じてようと方針を決めました。
トリニティ(三位一体)
これは、資本論とMMTの関係に「第三項」としてヘーゲルを明示的に加えて考えてゆこうということです。
まず、この三つの中で一番「無名」な MMTについて。
MMT(modern monetary theory)とは、社会(経済を)を多くの主体のバランスシートの連関、関係で把握しようという1990年代半ばに誕生した理論です。
これについてはこんな図を作ったりしていました(こちら)。
![](https://assets.st-note.com/img/1675372276647-m9Q3FrKHsU.png?width=800)
お気づきと思いますが、これが三位一体表現を思い立つきっかけになりました。
三位一体の連関で世界を把握する!といえばヘーゲルの理論です。
このような。
![](https://assets.st-note.com/img/1675372952111-nMXkbwfMc3.png)
尺度
尺度とはいったい何でしょうか。
現代のわたしたちは尺度に支配されていると言えます。
現代の自然科学で当然のものとして使われている尺度たちが確立していったのはヘーゲルやマルクスの時代です。
大哲学者ヘーゲルは、尺度の問題を根源的なところから把握しようとしました。
こうです。
![](https://assets.st-note.com/img/1675375915202-or2y6nU3GS.png)
マルクスは資本論においてヘーゲルのこの方法を使い、最初に「モノの価格」という経済学の基本単位の厳密な批判をしたうえで、さらに同じ方法で資本主義社会およびその経済学をやはり厳密に批判したのです。
しかし今の時代、このマルクスの巨大な業績は、前世紀における共産主義諸国家の「失敗」によって影が薄くなりつつあります。
とは言え、物事を厳密に考えていくと、われわれはますます尺度に支配されており、経済学は相変わらず間違っています。MMTという世界の見方が誕生したのは、その矛盾の反作用だとわたくしには思われます。
東洋人が「有」の哲学を理解するために
ヘッドホンさんによると、マルクス経済学者の宇野弘蔵は「カントはわかりやすいが,ヘーゲルはてんでわからぬ」「ヘーゲルの論理学は一行目からわからぬ」というようなことを言われていたとのこと。
わたくしは最近、ヘーゲルのわかりにくいのは、仏教の影響下にあるわれわれが「無」を考えることになじみすぎているからではないか?と思うようになりました。
実は「無」を考えることは「有」を考えることと同じなのですが、「有」を先に考える思考の型になかなか入っていけない、意味が掴めないのではないかと。
これは宗教に関係があるのです。
楽園に「尺度」はない!
ヘーゲルも重要なところで聖書を引用します。
アダムとイブが知恵の実を食べて、地上に堕落する前、人間たちは何一つ欠けることがないパーフェクトな世界に生きていました。
地上に墜ちて欠乏(=欲望)を感じるようになると、それを知恵で埋めようとするために尺度は生まれます。
例えば「反」という布の面積の尺度があります。
これは着物一着分を作るのにちょうどよい布地の面積だそうです。
地上に墜ち、恥部や肌を隠す必要を感じるようになった人間は、周囲にある素材を使って衣服を制作します。
そのために薄く柔らかい素材を調達して身体の大きさにそろえることになるでしょう。このとき「面積」という概念、同時に「長さ」という概念ができる。。。
というように。
先ほど書いたように、「無」を考えることは「有」を考えることと同じです。なぜならそれはどちらも「存在」を考えるということで、「存在」は「無」と「有」という側面を持つからです。
するとどうでしょう。
尺度という概念の本性をつかむためには、上のように存在を「完全な有」の世界(堕落する前のパーフェクトな楽園)からアプローチするとわかりやすいのです。
「有」と「無」で「成」っている、もしくは「成」るのがこの世界。
![](https://assets.st-note.com/img/1675378117716-ezEwSPTik2.png)
始めがいちばん難しい
これはドイツのことわざです。
宇野にとってヘーゲル論理学がそうだったように、資本論もそのようにできています(マルクス自身がそう書いていますね)。
これから頑張りたい「資本論を nyun とちゃんと読む」の戦略は、ヘーゲルに倣い、三位一体の論理と図式を全面的に活用して、ヘーゲルとMMTで資本論を「補強する」ような形で資本論の哲学を読み解いていこうというものです。
実のところそれは、互いが互いを補強しあう関係として表れるはず。。。なのですが、さてどうなるかな。
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