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第5回 モズラーの「奇妙な言葉」と現象学(資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る)

 note マガジン「資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の第5回。

 今回は、さかのぼること1997年の二月、 やがてモズラーとともにMMTの開発者になるビル・ミッチェルが、モズラーの発表の直後に関係メンバーに送ったメールの言葉から。

it is challenging i think. it is partly so b/c it is written in a language that is somewhat odd to a trained academic economist. the way i talk about money is a bit different. so that culture shock is challenging. but i also think it is challenging b/c it says, in part, that we have been far too defensive.

挑戦的だと思います。 訓練を受けた経済学者にとって少々奇妙な言語で書かれているからという部分もあります。当方がマネーについて語る時はちょっと方法が違うので、カルチャーショックが挑戦的になるのです。そして、こうも思います。それが挑戦的だと思ってしまうのは、ある意味、私たちがこれまで防御的でありすぎたことをそれが語ってくれるからです。

ビル・ミッチェルのブログ November 27, 2019

 実はこのマガジンでどのように語るかはあらかじめ全然決めていなくて、行き当たりばったりです(笑)。

 今回はMMTにやや重心を置くのですが、というのも、MMTについての勉強会のようなものでMMTについてしゃべりませんか?とお誘いを受けていて、それを考えているからです。

 MMTとは何でしょうか?

 最近思うのは、MMTとは「人々がその思考を Warren Mosler の思考にシンクロさせていく運動」に外ならないのではということです。

 ヘーゲルの著書は、ヘーゲルの思考への同調を要求します。そうしないと読者は論理や意味を追えません。

 そしてよく「ヘーゲルの言葉遣いは独特」「専門語が多い」と言われるのですが、要は、somewhat odd 、ちょっと奇妙なのです。 

 ヘーゲルの翻訳が難しいようにモズラーの翻訳も難しい。しかし、この二人の考え方はすごく似ています。煎じ詰めればそれは、自らの力によって哲学を打ち立てて行こうとするところです。

 何を言っているかわからない?

 ヘーゲルもそうです。「精神現象学」という本は、わからないまま読み進めると最後の最後に「ああそうだったのか!」ということがなんとなくわかります。
 そのあとで最初に戻ると「なるほどー」となる。これがたまらない(笑。

 そうなる理由の一つは、一周することによってヘーゲルの奇妙な言語の世界に読者側が馴染むからでしょう。

 しかしヘーゲルやモズラーについて説明を求められたときに「とにかく原文を読め!」というのは、特に日本人には酷というもの。

 そもそもわたくしがこのマガジンを始めた動機は、二人の似ているところを図式で示すと両方いっぺんにわかっていく!と気づいたことでした。

 まあやってみましょう。

ein Lebendiges (常に活動している全体)

 まず、われわれの思考対象は「一つの全体」であり、その外部はありません。

一つの「全体」

 「外部はない」のなら点線があるのはおかしい!と思われるかもしれません。この点線は宇宙の限界を表すと思ってください。

 「そこ」は常に変転しています。絶え間なく活動しています。

Das Leben(ダス レーベン)

 では次の図を見てください。

全体の一部を占める、とある「レーベン」

 いま「一つの全体」の一部を比較的濃い点線で囲い込み「ダス レーベン」と書き込みました。

 Das は英語の the のようなものなので、以下これを「ダス・レーベン」と呼びましょうか。

 上の図は、わたしたちが何かを考えるときに、ちょうどこういう感じで考えているよね、ということを表現しています。今言った「何か」が「ダス・レーベン」です。

 ダス・レーベンには、思考の対象になるものなら、なんでも代入できます。「机」「猫」「嘘」「スマホ」「悪」「酸素」…などなど。

 MMTなら、そうですねえ…まずは「政府」です。

思考される「政府」

 ヘーゲルっぽく考えるなら、ダス・レーベンに「自己」を代入。

思考される「自己」

 さて、自己は自己を保とうとします。

Das Andere(ダス・アンデレ)

 そして、それは常に自己以外(ダス・アンデレ)とかかわっています。
 ここが大事なポイントです!

 大事なので、図にします。


「ダス・レーベン」と「ダス・アンデレ」

規定する

 さてダス・レーベンを考えるということは、「一つの世界」の中に境界線を引くことである、ということであることがわかります。

 この「境界線を引くこと」を「規定する」と呼びましょう。

「規定する」とは線を引くこと

「生き物」で考える

 さて「ダス・レーベン」は常に「ダス・アンデレ」と関わることによって自己(ダス・レーベン自身)を規定しています。

 これは「生き物」を代入するとわかりやすい。

 ちょうどいまわたくしのすぐ隣に犬がいて、彼を眺めながらこれを書いているのですが、彼はまず、外界から空気やエサを取り入れ(口を使って)、吐息やウンチやオシッコを外界に排出する(口や排泄器官を使って)何かです。
 そのほかに「音を出す」「位置を変える」など、さまざまな外界に対する働きかけによって彼は彼なのであって、そうした活動の総体が彼を形作っている。

 言い方を変えるとわたくしはこの「ダス・レーベン」が外界から何かを受け取ったり、外界に対して働きかける活動の総体を「この犬」と考えているわけです。

「統合犬」?「統合政府」?

 ところで、よくMMTに対して
 「MMTは中央銀行廃止論だから現実的ではない」とか、
 「現実は制度によって中央銀行と政府はそれぞれの役割を持たされている のだからMMTをそのまま適用することはできない」
 というような、的外れなことを言う人が結構います。

 これがどのように的外れなのかわかるでしょうか?

 その人たちは、ちょうど、こちらが「犬」の話をしているときに
 「それは排泄器官廃止論だから現実的ではない」とか、
 「現実は口と排泄器官にはそれぞれ役割があるのだから犬の話をそのまま適用することはできない」
 と言って来ているようなものだからです。

 わたくしには彼らがすっかり統合を失調しているように感じられる。ま、これは、彼らからするとわたくしやMMTの言語が違う。

 モズラーの言葉が「奇妙」に聞こえるとすれば、それはこのような事情によります。

 次回は、彼の具体的な言葉をいくつか見てみよう…かな。

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