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第18回 資本論「大いさを決める(Größe bestimmen)」とはどういうこと?

資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の第18回。

 前回「大いさ(Größe)」は「大きさ」とは違うんだという話をしましたが、今回はその関連で少々。

ワタクシ前回こう書きました。

größe とは mehr (「より~」「もっと~」)や gleich(「同じ」)という比較で表される関係のことです。

これで十分かなと思ったものの、「資本論を nyun とちゃんと読む」でこの箇所にさしかかり、あれこれ考えると、やっぱこの説明だけで足りない感じがしてきたのです。

Es ist also nur das Quantum gesellschaftlich notwendiger Arbeit oder die zur Herstellung eines Gebrauchswerts gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit, welche seine Wertgröße bestimmt.

 「大いさを決める(Größe bestimmen)」というのはどういうことなのかをちゃんと説明しないといけない。

 当該箇所の翻訳として、たとえば次のようなものがあります。

だから、ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわち、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけである。(岡崎)

このように一つの使用価値の大きさを決定するのは、社会的に必要な労働の量であり、その使用価値を生産するために必要とされる労働時間なのである。(中山)

 größe は 関係のことだと説明しました。

 つまり「ある事物」が「他の事物(たち)」とどのように関係してるかです。

 ある事物Aからみて「AよりBの方がもっと~」あるいは「Bは同じくらい」というような。

 ところが「大きさを決定する」「量を規定する」と単に翻訳するだけだと、その量はあたかも事物Aそれ自体の単独の属性かのようなニュアンスが出てしまうきらいがあるとワタクシには感じられる。

 まあ「単独の属性」という言葉は意味をなさないわけですが\(^o^)/

 というわけで下のように訳注を入れようと思います。

このように、ある使用価値の価値の大いさを決める(訳注:大いさを決める
とは、その使用価値が「他と同等である」「他よりもっと」「他の方がよりもっと」を判断すること)
ものは、社会的に求められる(必須の)労働の数量値(Quantum)、つまり、その生産(Herstellung)のために社会的に求められる(必須の)労働時間にほかならい。

 ポイントの一つは、ここではまだ絶対値(数字)のことは論じられていないということです。

 図にしてみましょう。

 スライムのような物体があるとします。

スライム「A」を他(B~E)と比べると?

 ある民族を観察すると、彼らは「A」を他(B~E)と比べるときに、「C」と「E」を「Aと同じ」と評価し、「B」は「Aの方がもっと」、「D」は「Dの方がもっと」と評価しているということが分かったとしましょう。

 どうやら彼らの判断基準は面積ではないかと推定することができます。

 ところが別の民族は、「B」と「D」を「Aと同じ」と評価し、「C」は「Aの方がもっと」と評価し、「E」は「Aよりもっと」だったとわかりました。

 これはどういうことか?

 「大いさ(Größe)はどのように決まっているか(bestimmen)?」という問いはこれと同じような問いですよということを言いたいわけです。

 関連して、昨年読んだ『数の発明』(ケイレブ・エヴェレット)という本に印象的な一節がありましたので紹介しておきます。

 年齢をおおよそたどるには、何も数の概念を用いる必要はない。身内Aが間違いなく身内Bよりも年長であることは、Bが生まれた時にすでにAが存在していれば明らかだ。身内が3人以上いる場合には、単純な三段論法を使えば誰が一番年長化はわかるし、ふたりずつを突き合わせてどちらが年上かを決めていけば、その方法でもわかることだ。そして、仮に子どもが4人いたとしても、母やは他の子が生まれる前に生れていたのはどの子か、ほかの子がみんな生まれてから生まれてきたのがどの子かくらいはわかるだろう。そういう言ことを了解するのに量を区別する必要はない。絶対的な年齢、すなわち太陽をひとめぐりする旅を何回したかを知るには、量を識別しなければならない。だがそれは互いの年齢差というような相対年齢とはまったく違う概念だ。

 わたしたちは数字にする前にさまざまな「大いさ」を判定できますし、事実として判定しています。モノサシなどの判断基準は、むしろそのことによって発明されたという順番だったはず。

 あらゆる度量衡は歴史的にこうして生まれたはずですね。

 さて最後に。

次回以降の予告

 Größe(大いさ)はまず関係であるとワタクシ強調しておりますが、そうなると「関係」について少し説明したくなります。

 わたしたち現代日本語脳の場合、「関係」という概念をそれ自体独立した何かとして把握することができます。

 対してドイツ語脳の場合、関係(Verhältnis)とは「AがBに関わる(verhaltenする)、そういうのが関係と呼ばれる」という感じになる。

 上の「大いさ」にしても「A」という「主語」が「Aでないもの」にどうかかわるか(verhaltenするか)から思考が始まっていたというわけ。

 次回はこの辺を考えて、そのあといよいよ dar-stellen の話ができる。。。かな\(^o^)/



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