「税が貨幣を駆動する」もしくは、富裕層が庶民を駆動

筆者にゅんが、MMT入門した思い出の記事はこちら。ほんとうにこれには感謝しかない。レイのMMT入門の古い方の日本語訳。

税が貨幣を駆動する

 この箇所。一読して意味がわかったわけではないのだが「税が貨幣を駆動する」という表現が心に引っかかった。それがMMTに関心を持ったきっかけの一つだった。

 最近筆者は消費税について考えることが多いが、日本の消費税こそはこの典型だ!ということに気づいたのは実はごく最近のことだったりする。いやー、実際、本当にそうなっている!税はありありと貨幣を駆動していて、そのことによって資源を駆動していた!自分も駆動されてたやん!

 庶民って税を払えなくなると破産してしまう。なけなしの預金や現金の残高を減らされたあげく、底が尽きたら路頭に迷わなければならない。何とかして「円」という決済手段を獲得しないと生きることができないのだ。

 そして親となれば子供にせめてまあ自分と同レベルの教育を受けさせたいと思う。ただでさえ学歴社会である。学費そのものに消費税がかからなくても関同じなのだ。ベースの生活そのものに金がかかり、子どもが稼げるようになるまでは生活そのものに消費税がかかるのだから。いや、進学をあきらめたとしても。

北野弘久先生の反消費税論

 ところで最近筆者は、消費税に関する故北野弘久先生の議論に魅了されている。北野の消費税批判は「不景気なときには減税せよ」というような浅薄なものではなく、もっと根源的な問題意識がある。消費税には憲法の理念に反する重大な問題があるというのだ。そしてこの話はMMTで考えるといっそうはっきりする。税が貨幣を駆動する。税を取られるから、庶民はありつける労働条件で貨幣を稼ぐしかない。労働者が駆動される。

 たとえば北野のこの文章を見てほしい。

 「憲法の理念に反する」とは大きく二つあり、一つは応能負担原則に反するというもの。これはいわゆる逆進性の議論である。
 もう一つは、消費税は「国民主権原理を空洞化するもの」で、国民を「植物人間の地位」に追いやるという議論である。長いが、ここは引用してしまおう。

一般消費税である「消費税」は憲法の国民主権原理を空洞化させるという点である。日本国憲法は、租税国家(Tax State, Steuerstaat)体制(その国の財政収入のほとんどを租税に依存する体制)を前提としている。租税国家では、私たちの平和・福祉・人権なども租税の取り方(負担の仕方)と使い方とによって基本的に決まる。租税国家の民主主義は、納税者によって租税国家の運営(租税の徴収と使途)のあり方を監視(ウォッチング)され統制(コントロール)されることによって維持される。

 ところが、一般消費税である「消費税」は、あらゆる物品・サービスに対して課税される建前になっているので、消費税を負担する人々(担税者)は自分の意思とは無関係に法形式的にも租税法律関係から排除される。よく知られているように、所得税の源泉徴収の段階では、本当の納税者であるサラリーマンは事実上租税法律関係から排除される。所得税の源泉徴収の段階の租税法律関係は、課税庁と源泉徴収義務者(雇主)との間のみにおいて展開されるからである。それでもサラリーマンは法形式上は納税義務者の地位を有する。

 消費税のような間接税では、租税法律関係は、課税庁と税法上の納税義務者である事業者との間のみにおいて展開される。本当の納税者である担税者は法形式的にも租税法律関係から排除される。本当の納税者である担税者には「消費者」という地位しか与えられない。筆者は、本当の納税者(担税者)は法形式的にも「植物人間」の地位に追いやられると指摘してきた(拙著・岩波ブックレット『5%消費税のここが問題だ』など)。

 加えて、課税対象が特定・限定されない、あらゆる消費行為に課税される建前の一般消費税の場合には、自分の意思とは無関係に「植物人間」の地位に追いやられる。「植物人間」であれば、およそ租税国家のあり方を法的に監視し統制することが不可能である。本当の納税者が法形式的にも「植物人間」になるということは、憲法の国民主権主義が空洞化されることを意味する。憲法学では主権概念としてナシオン(nation)主権とプープル(people, peuple)主権との2つを区別する。日本国憲法の「国民主権」とはプープル主権という意味でのそれである。立憲主義国家にとって、この国民主権主義の空洞化はあまりにも重大である。

 この点、かつての物品税のような個別消費税の場合には、課税対象が特定・限定されているので、人々は自分の意思によって課税対象を選別することが可能であり、その選別を通じて消費税を負担するか、換言すれば「植物人間」になるかを決しうる。

 青山学院大学の三木義一氏は北野の弟子筋であると聞く。その三木はこのように語る

 確かに現在の日本の税制は不公正だが、有権者がそれを変えようとしない政党や政治家を選んでいる以上、それは致し方のないことだ

 確かにそうだ。北野の議論に即して言えば、植物人間に仕上げれば権力者の好きなようにできる。

 何十年も前に、我が国の富裕層やレントシーカーは、「将来の負担」「国の財政問題」という不安感を国民に信じさせ、そのことによって消費税を進んで受け入れるように仕向けた。庶民は納税負担をしながらも発言することができない植物人間の状態に追い込まれていった。彼らはこうして庶民の金融資産を奪いつつ、自分たちの所得税や法人税の負担は軽くして懐をさらに肥やすことに成功した。植物人間に文句を言われることはない。

 オマケもある。庶民が金融資産を奪えば奪うほど、労働者としての使い勝手が良くなる。成果主義や派遣労働を使えば勝手に生産性競争をしてくれる。人材派遣会社はウハウハとなる。働く植物人間というわけだ。

竹中平蔵さんの偽計行為の話

 ところで、北野による税経新報の連載は興味深いものが多く、こんな記事もあった。竹中平蔵さんという人物が、講談社の雑誌「フライデー」を訴えて、北野氏はフライデー側の弁護についたそうだ。フライデーが竹中さんの税逃れを記事にし、逆に竹中さんに訴えられたという案件らしい。

 甲2号証刊行前に公表された乙4号証によれば、竹中のこの行動についてつぎのように報道されている。

 慶応大学教授である竹中氏には、同僚の教授や助教授から、「彼に国民に痛みを求める資格があるのか」という疑問が噴出している。その源をたぐっていくと、竹中氏は以前、同僚たちにいかにも得意げにこんなふうに語っていたことがわかった。「知ってる?『1月1日』に日本にいなければ、住民税は請求されない、つまり、払わなくていいんだ。だから毎年暮れに住民票を海外に移し、年を越してから戻ってくれば効果的かつ合法的な節税になるよ。」

 竹中は、「節税」といっているが、通常の意味での節税ではなく、税法学的には脱税である。

 どうも竹中さんと言う方は、自分だけが税を逃れればよいと考える人物であるように書かれている。何しろ、こういう事を言う人物なのだから。もう一度。

「知ってる?『1月1日』に日本にいなければ、住民税は請求されない、つまり、払わなくていいんだ。だから毎年暮れに住民票を海外に移し、年を越してから戻ってくれば効果的かつ合法的な節税になるよ。」

 ここで話は戻る。

 日本社会を利用して金儲けをしようと思ったら、その人物はどんなことを考えるだろう。社会資本を民営化してそのインフラからうまい汁を吸いたいな。法人税は取られたくないな。富裕税も取られたくない。しかし、インフラを奪って政府を小さくしたらGDPが下がってしまう。

 でも、知ってる?

 社会保障あるでしょ?あれ社会保険じゃなくて、政府がまず庶民から税を取って、それを社会保障で返す税方式の形にする。いや、もちろん同じことなんだよ。トリックはね、そうすればGDPに計上されるんだ。だからそうすればこっちの減税が通る。ホントは、社会保険で足りない分を政府が補えば十分なんだけど、不安をあおって消費税率を上げて、自分から進んで働く植物人間になってもらればいいじゃない。

 まだまだいけると思うよ。経済学者はこっちの仲間だ。マクロ経済学とか、税収が同じなら中身は気にしないんだ。ありがたいことにそういうガクモンだからね。財政がヤバいって九官鳥させときゃいいんだよ、こんなふうに。


そして日本には、民営化で金儲けに回せる社会資本もまだまだ残っている。教育とか水道とか観光かな。もちろん合法的だよ!



おわり。

過去記事も、似たような話です。よかったらどうぞー


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?