第3回 「定義はすべて危険である」(資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る)
note マガジン「資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の第3回です。
さてヘーゲルは「学問の体系」あるいは「知の体系」を構築しようとしたわけですが(どちらにしても Wissenschaft の一語)、このとき「定義は危険である」と考えていることに注意しましょう!という話を少し。
公理と定義で展開される学
学問における「定義」は、ユークリッドの幾何学をイメージするとわかりやすいでしょうか。
ユークリッドのこの形式に倣った体系には、ニュートンの「プリンピキア」、スピノザの「エチカ」などが挙げられるでしょう。
厳格な論理を推し進めるために「定義」は重要です。
ところが、そのヘーゲルはその危険性を強調します。
「定義はすべて危険である」
ヘーゲル『法の哲学』(中公クラシックス)序文から引用します。強調はわたくしです。
という調子です。
ワタクシのヘーゲル理解では、「定義」とは推理小説の初めに付いている「登場人物紹介」のようなもので、中心問題ではない、という感じです。何なら本文だけ読んでも全く問題がない。
知の体系にとって重要なのは「いろいろ多くの関係」の方であって、定義ではまったくない。
Omnis dēfīnītiō in jūre cīvīlī perīculōsa est.
ヘーゲルが引用した「定義はすべて危険である」は、1~2世紀のローマ法学者ヤウォレーヌスの文章で、6世紀には学説法として法文にまでなっているものだそうです。
参考としてこちらをどうぞ↓。
ヘーゲルは厳格な定義には「一定のマイナスがそれだけ多く付着してくるということ」に極めて敏感だったように思います。ニュートンの「プリンピキア」のことも厳しく批判するのです。
「公理からの演繹」ではない論理体系
ではどうやって「知の体系」「論理の体系」を構築するの?という問題に対するヘーゲルの答えが、「三位一体システム」です。
『法の哲学』は下の図の構成になっているのですが、こうしてみると、概念の定義ではなく、概念と概念の「いろいろ多くの関係」を重視しているということが感じられるのではないでしょうか。
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