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第3回 「定義はすべて危険である」(資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る)

 note マガジン「資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の第3回です。

 さてヘーゲルは「学問の体系」あるいは「知の体系」を構築しようとしたわけですが(どちらにしても Wissenschaft の一語)、このとき「定義は危険である」と考えていることに注意しましょう!という話を少し。

公理と定義で展開される学

 学問における「定義」は、ユークリッドの幾何学をイメージするとわかりやすいでしょうか。

定義1ー1(点)
 点とは部分をもたないものである。
定義1ー2(線)
 線とは幅のない長さである。
 (長さ は線の第一の属性であり、異なる線を比較しうる指標である。)
定義1ー3(線の端)
 線の端は点である。
定義1ー4(直線)
 直線とはその上にある点について一様に横たわる線である。
・・・

 ユークリッドのこの形式に倣った体系には、ニュートンの「プリンピキア」、スピノザの「エチカ」などが挙げられるでしょう。

 厳格な論理を推し進めるために「定義」は重要です。
 ところが、そのヘーゲルはその危険性を強調します。

「定義はすべて危険である」

 ヘーゲル『法の哲学』(中公クラシックス)序文から引用します。強調はわたくしです。

 諸学の形式的な、つまり哲学的でない方法からいえば、まず第一に定義が、すくなくとも外面上の学的な形式のためにさがし求められる。
 それにしても実証的な法学にとっては、そのこともそれほど中心問題ではありえない。というのは、実証的な法学がとりわけめざしているのは、なにが法にかなっているのか、つまりどれが特殊な法律上の諸規定なのかを述べることだからであって、それだからこそ戒めにこう言われたのである──「ローマ市民法においては定義はすべて危険である」と。
 また実際、ある法のもろもろの規定がたがいに連関し合わないで、矛盾し合っていればいるほど、その法におけるもろもろの定義は、それだけますます可能でなくなる。というのは、それらの定義はむしろ普遍的な諸規定をふくむはずであるが、これらの規定はただちに、矛盾するものを、ここでは不法なものを、そのあらわなすがたで目に見えるようにするからである。たとえばローマ法にとっては人間についてのどんな定義もできないであろう。というのは、奴隷はこの定義のもとに取り入れてもらえないだろうし、奴隷の身分においてはかえって人間の概念がそこなわれているからである。同様に、所有と所有者についての定義も、いろいろ多くの関係にとっては危険に見えることになるであろう。──

 という調子です。

 ワタクシのヘーゲル理解では、「定義」とは推理小説の初めに付いている「登場人物紹介」のようなもので、中心問題ではない、という感じです。何なら本文だけ読んでも全く問題がない。

 知の体系にとって重要なのは「いろいろ多くの関係」の方であって、定義ではまったくない。

Omnis dēfīnītiō in jūre cīvīlī perīculōsa est.

 ヘーゲルが引用した「定義はすべて危険である」は、1~2世紀のローマ法学者ヤウォレーヌスの文章で、6世紀には学説法として法文にまでなっているものだそうです。

 参考としてこちらをどうぞ↓。

法律条文中の言葉の意味内容が誰の眼にも明らかであるという状況はかならずしもつねには存在しないのである。なかでも、「公共の福祉」、「信義誠実」、「公序良俗」などのいわゆる「一般条項」はきわめて重要な法概念であるけれども、定義はきわめて困難であり、そのためにかえってウマ味のある概念用具となっている。さて、言うまでもなく、この格言はほんの一面の真理を現代のわれわれに教えるだけであるが、固くて立派な定義をすればするほど、一定のマイナスがそれだけ多く付着してくるということだけは知っておく必要があろう。

  ヘーゲルは厳格な定義には「一定のマイナスがそれだけ多く付着してくるということ」に極めて敏感だったように思います。ニュートンの「プリンピキア」のことも厳しく批判するのです。

「公理からの演繹」ではない論理体系

 ではどうやって「知の体系」「論理の体系」を構築するの?という問題に対するヘーゲルの答えが、「三位一体システム」です。

 『法の哲学』は下の図の構成になっているのですが、こうしてみると、概念の定義ではなく、概念と概念の「いろいろ多くの関係」を重視しているということが感じられるのではないでしょうか。

『法の哲学』における三位一体関係

 

 

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