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2022年出会った短歌

好きな歌はたくさんあるけれど、日常生活の中でときどき思い出しては呪文のように唱えていた短歌の紹介と、拙いけれどその感想。


ベランダに鳴く秋の虫 夫婦とは互いに互いの喪主であること
/松村正直

『午前3時を過ぎて』
短歌タイムカプセルより

異性同士の場合、生涯この人と添い遂げると決めたときに夫婦になることができるが、籍を入れないで連れ合うという選択肢もある。じゃあなんで入籍するのかといえば、嫡出子としての子どもがほしかったり、税関連で入籍した方が都合がいいことも多かったり、それぞれ理由はあるだろうが、なにより相手の大事なときに責任を負うことができる。結婚をして法律上の家族になれぱ、相手がなにか大きな手術をするときにサインをすることや、亡くなったあとに葬式の喪主になること、遺書がなくても遺産をもらうこと/あげることができる。夫婦になるってそういう責任を負うという一面がある。
でも、当然ながら、夫婦になっても「互いに互いの喪主」にはなれない。どちらかが先に亡くなり、どちらかが見送る。その一方の関係では見送る側は喪主になれるが、見送った側が亡くなったときに喪主になるのは先に亡くなった配偶者ではない。現実に互いに互いの喪主になることはできないが、「互いに互いの喪主であること」という表現は、一般的なロマンチック・ラブ→結婚の魔法のような恋愛の初期症状がなくなり、ある程度の時間を過ごした夫婦としての、最期まで添い遂げるという愛の表現だなと思った。
「喪主」という言葉に驚くけど、「秋の虫」が「ベランダ」で鳴いているという強い現実感、生活感が「互いに互いの喪主である」という表現に説得力を持たせていると思う。

『短歌タイムカプセル』で知った歌。歌集『午前3時を過ぎて』はまだ読んだことないのでいつか読みたい。


あなたのなかのわたしをわたしは欲しくないたれのものでもなくゆるる朴
/渡辺松男

『けやき少年』
ねむらない樹vol.8より

「あなたのなかのわたし」つまり、他者から見たときの自分のイメージって、たいがい自分自身とはズレている。全然そんなつもりじゃないことで褒められたり、逆に言いがかりをつけられたり。真面目だよねとかほんとはそんな人じゃないとかみんな好き勝手言う。そして、自分は、たとえば相手のなかにわたしを「優しい人」だというイメージがあるとしたら、その人のまえでは「優しい人」になろうとしてしまう。相手のイメージのほうに自分を合わせにいってしまう。そういう経験が多少でもある人はいると思う。でも、この歌では「あなたのなかのわたしをわたしは欲しくない」といって、相手のなかにあるイメージを突っぱねている。あなたの思いどおりにはならない。わたしの望まないわたし像を断って、わたしのままであろうとしている。ひらがなが多くてやさしい印象だけれども芯の強さを感じる。「たれのものでもなくゆるる朴」で大きなホオノキが自然のままにある様を想像できて、清々しい。
ところで「朴」の読みは「ほお」でいいのかな。

『ねむらない樹vol.8』の渡辺松男特集の自選100首で知った歌。こちらも元の歌集は読めてない。


生まれたから生きて死ぬヒトたらちねの死亡原因は常に出生
/九螺ささら

『神様の住所』

「生まれたから生きて死ぬ」と「死亡原因は常に出生」って似たことを反転して言ってるんだけど、生→死→生の転生のようなサイクルを表現してるんだと思った。そしてそのあいだに挟まる「たらちねの」はもちろん「母」「親」にかかる枕詞で、出生の原因には遺伝子上の両親の性行為がある。人類は、サルに似た生き物だったころから、生まれてきて、次の命を産み、死ぬという行為をずっとずっと長いあいだ繰り返してきたということを想起させられる。
「生まれたから生きて」ってそのとおりで、みんな自分の意志で生まれてきたわけじゃない。でも生まれてきたからにはどんなに嫌でも勉強したり働いたりして生きていかないといけない。そしていつかは死という苦しみ(苦しいのかな?)を体験しないといけない。「ヒト」という表現から、主体の視点は人類のなかにはなく、その外側にあるように思う。「ヒト」の営みを観測しているような。「死亡原因は常に出生」って露悪的だけど言い切ってしまう思いきりがいいなと思った。

九螺ささらさんのことは『短歌の時間』という東直子さんが選をされた投稿欄をまとめた本で知った。『神様の住所』は短歌とエッセイがセットで章立てされている本で、九螺ささらさんの言葉の世界観に浸れる本。


あおあおと躰を分解する風よ千年前わたしはライ麦だった
/大滝和子

 『銀河を産んだように』

「あおあおと」という言葉から、新緑の季節か、あるいはどこか緑に囲まれた清々しい場所を想像する。そこで風に吹かれていると、自分の体を別のもののように感じる。そして思い出す。「千年前わたしはライ麦だった」。なんてスケールの短歌だろう。
ライ麦を見たことがないのだけれど、調べたら、ライ麦は高さが1.5〜2.5mほどあるらしく、ほとんど人間と同じかそれより高い。
ライ麦が日本に入ってきたのは明治以降なので、「千年前」とは日本のことじゃないと思う。千年前のライ麦は、(ざっくり)ヨーロッパあたりで主要な穀物のひとつだった。この歌は、千年という時間を超えているだけではなく、場所も大きく移動している。むかしむかし遠い異国の地で広く栽培されていた植物に自分の体をシンクロさせているという眩暈のするような歌だと思った。
わたしはこういう自分の身体をなにか別の植物や無機物ととらえる表現が好きで、わたしにはまったくわからない感覚だからこそ魅力を感じてしまう。

『銀河を産んだように』は好きな歌集で、初めは図書館で借りて読んだけど、そのあと古本で手に入って、何度も読み返してる。


サンダルの青踏みしめて立つわたし銀河を産んだように涼しい
/大滝和子

 『銀河を産んだように』

「銀河を産んだように」という比喩の大胆さに圧倒される。清々しい開放感がある。妄想だけれども、夏の夜に白いワンピースでほんのり汗をかいた女性がまっすぐ立っている後ろ姿を思い浮かべた。
下の句に驚いて繰り返し思い出しているうちに、下の句の大胆な比喩が受け入れられるのは、上の句の繊細な身体感覚があるからかなと思った。「サンダルの青」って詩的なフレーズだけど、考えると、掲出歌で主体が立って踏みしめてしるのは、サンダルだ。土や大地や地面ではなく。掲出歌から想像できるものと同じシチュエーションを表現する場合、「地面を踏みしめて」と表現されがちに思うし、そうすると(裸足の場合を除いて)履いているものまで含めて自分の身体ということになる。自分の身体をそうやって拡張してとらえることはふだんわたしたちが自然に行っていることだと思う。箸で豆腐を掴むとき、実際に自分の皮膚が触れているのは箸だけれど、自分は豆腐を掴んでいる、と思うように。サンダルを履いて地面に立てば、自分は地面を踏みしめている、と思う。けれど掲出歌ではサンダルを踏みしめていて、「わたし」は真実の自分の身体までで区切られている。ここの身体に対する丁寧なとらえ方が、「銀河を産んだように涼しい」の比喩にも立体感、真実味を持たせているのかなと思った。


さびしさの単位はいまもヘクタール葱あおあおと風に吹かれて
/大森静佳

『ヘクタール』

ヘクタールは、1万平方メートル(100m×100m)で、それが「さびしさの単位」だという。ひと一人の身体を飛び出した大きなさびしさに、切なくなるよりも先に驚いてしまう。「いまも」とあるので、さびしさが生まれるきっかけとなったときから、それはずっと広大なままだ。そしてそこでは葱が育ち、風に吹かれている。葱畑というのが意外で興味深い。広大な土地に、たくさんの葱が生えている——、さびしいという感情とは裏腹にどこか清涼感がある光景だ。
最初読んだとき、広い葱畑のまえにぽつんと立っているひとりの人を想像した。薄い青空が広がっている気がする。さびしいのに晴れ晴れとした不思議な光景だと思った。そのうち、世界中すべての生命のさびしさを集めた光景(1ヘクタールが1生命分のさびしさということ)と読んでもおもしろいと思った。あるいは、揺れている葱の一本一本を生命ととらえてもいい。みんなさびしさの畑で揺れることしかできない葱。これらの読みの場合、「いまも」という言葉で想定されるさびしさの起源は、生命が生まれたときや、宇宙が生まれたときを想定できる。「ヘクタール」で空間的な奥行、「いまも」で時間的な奥行があり、四次元(あってる?)の広がりを感じる。

この歌と初めて出会ったのがいつどこなのか覚えていない。たぶんツイッターだと思うけれど。歌集のタイトルの元になった歌でもあるし、ほんとうによく引用されているのを見かける。『ヘクタール』はたぶん今年いちばん読み返した歌集だと思う。


逃げる逃げる水餃子かな〈暮らし〉という揺らめくものもオーロラと呼ぶ
/北山あさひ

『崖にて』

掲出歌の中で、〈暮らし〉は水餃子であり、オーロラなのだ。まったく系統の違うものに例えてしまうところに驚く。
「逃げる逃げる水餃子かな」が、まずユーモアがあっておもしろい。おもしろいんだけど内容は切実で、〈暮らし〉がつるつると逃げていって、まるで水餃子のように掴めない。括弧で囲まれた「〈暮らし〉」は、わたしたちになんとなく共有されている「ふつうの暮らし」というもののことかなと思った。「ふつうの暮らし」とされているもの(たとえば、子どものころは血のつながった両親と暮らして、高校や大学に進学して、正社員で就職して、結婚して、ローンで家を買い、子どもを産んで…というようなもの)は、実現するのはほんとうに難しい。掲出歌ではそれを「オーロラ」と表現した。オーロラは、とても綺麗だけれども、(少なくとも日本に住んでいる人からすれば)どこか遠くにあり、よほど頑張らなければ一生見れないものだ。「ふつうの暮らし」は、ぜんぜん「ふつう」じゃない。それでも「ふつうの暮らし」にとらわれてやさぐれるのではなく必死に生きて暮らしていこうとする強さを感じる。

『崖にて』は10月に開催された札幌文フリのランデヴーのスペースで売られていたサイン本を買って、初めて読んだ。北山さんの歌はいろんなところで引用されているので知っている歌はたくさんあったけど、掲出歌は歌集で初めて知って、好きになった。


かすかでも波は波だねひかりからうまれる馬のたてがみ、おいで
/丸山るい

2022/05/05 ご本人Twitter

まっすぐ静かに川を行く船がかすかな波を起こす。船首から次々にうみだされる波は昼のひかりできらきら輝いていて、それを「馬のたてがみ」と表現し、「おいで」と呼びかけることで、見事に船を追いかけてくる馬をうみだしてしまう。魔法のように現実と幻想が混じりあう美しい一首。
「かすかでも波は波だね」って不思議な表現だと思ったけど、主体は幼いころから波(とくに海の波)がきらきら輝いているのを見るたびに何度も馬のたてがみを想像してきたんじゃないかなと思った。そして大人になって、川を渡る船に乗り、そこに海に比べたらかすかだけれども波があるのを見て、ふたたび波のひかりからうまれる馬に出会った。
思い出すたびに、ぱちぱちと水に反射する光ときらきら駆けている馬のたてがみがまぶしくて好きな歌。

わたしが現代短歌を知ったのは上坂あゆみさんが歌集を出されたころで、上坂さんつながりで岡本真帆さんを知り、岡本さんが掲出歌を含む丸山さんの短歌のツイートをリツイートされてて、この歌を知った。岡本さんの歌集が出たあとに水上バス浅草行きにほんとに乗ってつくられたものだったと思う。わたしはこの歌に憧れて短歌に強く興味を持ったので、この歌を知れなかったら今年知ったすべての短歌や歌人の方々にも出会えなかった。この歌に出会えてよかった。

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