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スライドを捨てよ。予稿集を読み上げよう。

現在、学会発表と言えば、プレゼンテーションソフト(主にパワーポイント)でスライドを映して話をする形式を採る人がほとんどだ。

だが、そういう発表の9割以上は、スライドなど使わずに予稿集をただ読み上げるだけにした方がはるかにましな発表になるように思われる。

聴衆の手許に情報がない

多くの学会の大会では、予稿集というものが用意されるか、資料(ハンドアウト)が配布される。その上でスライドを使って説明されると、どちらを見ていいのか分からなくなる。予稿集はなんのためにあるのだろうか。

「いやいや、折角スライドを作ったのだからスライドを見てくれ」というのがスライドを使って発表する人の気持ちであろう。

しかし、聴衆からすれば、手許に情報がないことは大きな理解の妨げになる。さっき見逃したスライドをもう一度見たいと思っても、すでに次のスライドに移っている。画面の上の情報が流れていくのを受動的に見るしかない。その点、予稿集ならばいくらでも見返すことが可能だ。

手許の資料に書き込めない

手許に資料がないということは、聴衆は資料に書き込めないということだ。発表を聴いていて気づいたことがあっても、それを書き留めることができない。

大急ぎで手許のノートなどに書き込むのでは、発表資料に書き込むようにはいかない。

視覚の多様性への無配慮

スライドを使った発表には他にも深刻な問題がある。スライドを使った学会発表は多くの場合、視覚の多様性への配慮を欠いている。

カラフルな装飾を使い、「赤の部分はAを、緑の部分はBを意味します」などと、色が分からなければ何も分からない説明がなされることがある。色覚の違いで話が通じないことになる。この点、予稿集は黒一色しか刷れないのが普通であるから、色覚の違いのせいで読めないという心配はない。

もっとも、色の違いが分からなくても意味が取れるように配慮をすることは理屈の上では可能だ。現実的には、ほとんどの人は気にしないようだが。

しかし他の視覚障碍ではどうにもならないことがある。視覚に障碍があると思われる人が、予稿集を目に近づけて読んでいるところを目にすることがある。このような人の場合、スライドでは何も見えないことになる。

格好なんかよくない

スライドは新しくモダンな最先端の道具で、使えないのは格好が悪い、という思いを持つ人は多いのだろう。

だが、学会発表におけるスライドは何も新しい道具ではない。OHPは百年近く前からあるし、幻灯機は何百年も前からある。それでも、それらの道具を文字を羅列したプレゼンテーションのために使ういま流行りの方法は、この20年ばかりの間に流行りはじめたものだ。

道具があっても昔の人はそんなことをしなかった。昔の人がそれをやらなかったのは、思いつかなかったからでも技術がなかったからでもない。そんなことをしても聴衆の理解に寄与しないからだ。

そもそも、本当に「格好のいい」スライドを作ることができている人はほとんどいない。無意味なアニメーション、アニメーションのエラー、文字が読めない背景画像、ごてごてとした装飾、画面いちめんの小さすぎる文字、SimSunの日本語、MS明朝の英語……。そんなスライドを人目に晒すならば、黒い文字だけの予稿集だけで発表した方がよほど格好がつく。

それでも使いたいなら

それでもどうしてもスライドが使いたい、という人もいるだろう。だが、「スライド一つも使えないのか?」という目で見られたくない、という些細なプライドによって聴衆を犠牲にしては元も子もない。

それでもどうしても使いたいならば、せめて予稿集棒読みと同程度には聴衆に伝わるように配慮をしていただきたい。

予稿集やハンドアウトの形で配布する資料はスライドを印刷したものにする。そうすれば聴衆の手許に情報があり、聴衆は資料に書き込むことができる。「予稿集とスライドのどちらを見ればいいのか」という悩みも生じない。

白黒で印刷しても理解できるような作りにすること。また、縮小して印刷して配布資料として配られても読めるくらいの大きさの文字にすること。そうすれば視覚が多少違っても読める。

そしてデザインに注意すること。無駄な装飾を廃して、とにかくシンプルに作るのがいい。

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