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「さらえる」は標準語? それとも方言?

はじめに

X(旧Twitter)で、このようなポストを見かけました。一応日本語学に関わってきた者として、お答えしてみたいと思います。

「標準語」に厳密な基準はない

容器の中身を全て取り出すことを「さらえる」と言うことがあります。この「さらえる」は標準語か、というのがご質問です。

ここで問題になるのは、そもそも「標準語」「方言」とは何か、ということです。

まず、「方言」とは何でしょうか。言語学では、ある地域・あるいはある社会階層が用いる言語のバリエーションを「方言」と呼んでいます。一般的には「東京の言葉は『標準語』であって『方言』ではない」という扱いをされることが多いですが、東京の言葉であれ、京都の言葉であれ、言語のバリエーションはいずれも「方言」です。

次に、「標準語」とは何でしょうか。日本語では、何らかの公的な機関が「標準語」を定め、統制しているわけではありません。それでは私たちが「標準語」と呼んでいるものは何でしょうか。東京の方言のうち、テレビの放送などで使われ、全国で通じるようなものが「事実上の標準語」になっている、と言うほかないでしょう。また、この意味での「標準語」は「共通語」と呼ばれているものとほぼ同じとも言えます。

(※補足: 東京の方言であっても、「べらんめえ調」のような「下町言葉」は「標準語」とは呼ばれませんよね。)

それでは、「さらえる」はこのような意味での「標準語」に含まれるのでしょうか。これはちょっと難しい問題です。なぜならば、この「標準語」には誰かが決めた厳密な「基準」などないからです。

  • 「標準語」には厳密な基準がないので、「さらえる」が標準語かどうかには厳密な答えはない。

とりあえず、これをご質問へのひとまずの答えとして、次に進みましょう。

辞書の中の「さらえる」

さて、この「さらえる」は、一般的な国語辞典に載っているのでしょうか。

『日本国語大辞典 第二版』

まず、最大の国語辞典である『日本国語大辞典 第二版』(小学館)を引いてみましょう。この辞書には次のような項目があります。二つの項目に分かれていますが、おそらく元は同じ単語でしょう。

さら・える[さらへる] 【掠・攫】〔他ア下一(ハ下一)〕さら・ふ〔他ハ下二〕すっかり持ち去る。全部を連れ去る。

『日本国語大辞典 第二版』

さら・える[さらへる] 【浚・渫】〔他ハ下一〕[文]さら・ふ〔他ハ下二〕(室町時代頃からヤ行にも活用した。→さらゆ)川・池・溝・井戸などの底にたまっている土砂などを掘り上げてすっかり取り去る。かきのける。さらう。

『日本国語大辞典 第二版』

そして、「掠・攫」の方には、1896年の落語『化物』の中の、次のような用例が載っています。狐が美味しい食べ物を全て持って行ってしまう、という話のようです。

其昔浅茅ケ原に出ました狐、此れは悪い奴で夕方何か人が美味(うまい)ものを持って通るとチョコチョコ出て来ましてヒョイと奪取(サラヘ)る

落語『化物』(『日本国語大辞典 第二版』から孫引き)

『デジタル大辞泉』

次に、中型の国語辞典として、『デジタル大辞泉』を見てみましょう。次のようにあります。

さら・える〔さらへる〕【×浚える/×渫える】
[動ア下一][文]さら・ふ[ハ下二]「浚(さら)う➊」に同じ。「堀の泥を―・える」

『デジタル大辞泉』(2023年5月26日バージョン)

そこで「浚(さら)う➊」を引いてみると、次のようにあります。この「2」の意味がまさに今回のご質問にドンピシャの例ですね。

さら・う〔さらふ〕【×浚う/×渫う】
➊[動ワ五(ハ四)]
1 川や井戸などの底にたまる土砂やごみを取り除く。さらえる。「どぶを―・う」
2 容器などの中のものを残らず取り出す。さらえる。「鍋の残りを―・う[可能]さらえる

『デジタル大辞泉』(2023年5月26日バージョン)

国語辞典に載っているから標準語?

それでは、「国語辞典に載っているのだから『さらえる』は『標準語』だ」、と言えるでしょうか。そうは言えないでしょう。先ほど述べたように、東京の方言のうち、テレビの放送などで使われ、全国で通じるようなものが「事実上の標準語」となっているのでした。国語辞典に載っていても、東京の方言において広く使われているわけではなく、全国で通じるわけでもないと思われる「さらえる」は、この意味での「標準語」とは言いにくいでしょう。

なお、私は長野県の出身で、施錠することを「鍵をかう」と言います。これも『デジタル大辞泉』などには載っていますが、日本中で広く通じるわけではなく、「標準語」とは言えないでしょう。

さて、「さらえる」が「標準語」かどうか、という、厳密な答えが出ない問題について考えるのはそろそろやめにして、この問題をもうちょっと厳密な言語学的問題として定義しなおしてみましょう。

私は先ほど「さらえる」を「東京の方言において広く使われているわけではなく、全国で通じるわけでもない」と言いましたが、本当でしょうか。実は、これは検討の余地があります。本当に東京周辺で「さらえる」は使われていないのでしょうか? というよりも、全国のどのあたりで「さらえる」が使われていて、どのあたりで使われていないのでしょうか? 本当に問題なのはこのことではないでしょうか。

そういうわけで、当初のご質問は、言語学的な問題として、次のような形に言い換えることができるでしょう。

  • 「さらえる」はどのような地理的分布をしているか。

「さらえる」の分布

言語地理学とは

言語の地理的な分布を研究する学問が「言語地理学」です。と言うと、「どの地方でどのような単語が使われているのか」を調べるだけの学問だと思われてしまいそうですが、実際には、発音や文法を含む様々な調査を行い、その分布ができるに至った歴史的経緯まで探求する学問です。(なお、これを書いている私は言語地理学の専門家というわけではありませんが、言語地理学の調査(木川2013)に調査者として参加した経験があります。)

言語地理学においては、「言語地図」と呼ばれる、言語の特徴(どのような発音を使うか、どのような文法を使うか、どのような単語を使うか、など)の分布を地図にまとめたものが作られます。

日本語の言語地図としては、国立国語研究所による『日本言語地図』(1966-1974)が有名です。研究者が全国各地の2400の地点で聞き取り調査を行い、300枚の地図にまとめたものです。

なお、言語地理学について詳しく知りたい場合は、こちらの動画が参考になります。

「さらえる」に対する言語地理学的研究

それでは『日本言語地図』に「さらえる」が載っているかというと、残念ながら、載っていません。

それはそうで、小型の国語辞典でも、5万から10万もの項目があります。日本語に存在する語彙の隅々まで、言語学者が日本全国を回って分布を調査するというのは現実的ではありません。『日本言語地図』でさえ、調査が行われた項目は285項目です。

私の調べた限り、「さらえる」を調査した言語地図には、都染直也編(2000)『兵庫県姫路市言語地図』があるようです。ただ、これは全国規模の調査ではありません。(また、残念ながら、私の手許にはこの地図集はありません。)おそらく他にも「さらえる」を調査した言語地図はあるものと思われます(情報お待ちしています!)。が、全国規模のものはおそらく無いでしょう。

それではもう少しおおざっぱでも、どのあたりで使われているのかの情報を得ることはできないでしょうか。『日本方言大辞典』(1989)を引いてみましたが、「さらえる」の項目はありませんでした。この辞典は全国各地の方言集等から語彙を採録して集大成したものです。「さらえる」という語が方言だという意識がなく、多くの方言集が書き漏らしてきたのかもしれません。

結局、残念ながら結論は次のようになります。

  • 「さらえる」の分布は未解明。

ちょっと待った! まだ諦めないで!

「なんだ、分からないのか」と思われたかもしれません。しかし、諦めたらそこで試合終了です。

かつて、朝日放送テレビの番組『探偵! ナイトスクープ』に、「アホ・バカ」がどのように分布しているかが気になるという視聴者からの投書がありました。この番組では、方言学者の徳川宗賢(むねまさ)氏のアドバイスを受けつつ、「アホ・バカ」の分布を調べ、地図にまとめました。番組プロデューサーの松本修氏はその成果を『全国アホ・バカ分布考』(1993)にまとめました。

このときに採られたのは、日本全国の教育委員会に向けてアンケートを取るという方法でした。通常の言語地理学的研究では得るのが難しい情報を補完するものとして、このアホ・バカ分布図は価値の高いものとして認められています。

しかも、現在ではインターネットの発達により、多くの情報を低コストでやりとりすることができます。昔、「方言地図作製計画」というウェブサイトに、方言地図に自分の方言を投稿できる掲示板がありました。いつからかこの掲示板は動かなくなっていますが、似たような方法で言語地図を作ることができるかもしれません。

「さらえる」の他にも、日本全国での分布を多くの人が気にしている語形は、まだまだあるものと思います。言語学者があちこちを回って調査するという通常の言語地理学的研究のような厳密な調査をインターネットで行うことは不可能ですが、その分、インターネット上にいる多くの人に色々な項目に答えてもらうことで、コスパよく言語地図を作ることができるかもしれません。

さらに、最近はYouTubeなどでも言語学関係のコンテンツに人気が出てきています。そうした視聴者の多いメディアを通じてアンケート調査の呼びかけが行われれば、多くの回答が集まるのではないかとも期待されます。

というわけで、この記事全体の結論はこうです。

  • 「さらえる」等の分布のウェブ調査、どなたかやってみませんか?


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