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夏来たるらし

数日前まで暖房が必要なほどだったのに、数日でいきなり冷房が必要なほどになった。暑くて仕方がない。世の中は引き続き騒がしいが、それはさておき、こんな季節に相応しい浮世離れした話題でも。

持統天皇の有名な御製がある(『万葉集』28番歌)。

春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
(春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香具山)

『新古今和歌集』『小倉百人一首』には「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山」という形で収められている。こちらで覚えている方が多いだろう。

さて、この「来たる」は次のどちらなのだろう。

(1)「来たる」(ラ行四段活用動詞の終止形)
(2)「来」(カ行変格活用動詞の連用形)+「たる」(完了の助動詞「たり」の連体形)

それぞれ次のような意味になるだろう。

(1′)「(これから)来るらしい」
(2′)「来たらしい」

中村幸弘『先生のための古典文法Q&A100』(p. 39)は次のように言っている。

次の歌の「来たる」を「来」「たる」とする方は、もういらっしゃらないでしょう。(略)しかし、そう遠くない以前までは、そのように説く学習参考書もありました。もちろん〈(コレカラ)ヤッテクルラシイ〉という意味です。〈ヤッテキタラシイ〉ではありません。〈コレカラヤッテクル〉夏に備えて、「衣干したり 天の香具山」ということになりましょう。

(1)説を強く押し、(2)説を否定している。ラ行四段活用動詞の「来たる」は中古和文ではあまり用いられないが、上代ではよく用いられるから、ということのようだ。

ところがいくつかの注釈書を見てみると、「やってくるらしい」と訳しているのは岩波書店の日本古典文学大系だけで、他のものは「来たらしい」と訳している。

春が過ぎて夏がやってくるらしい。(青葉の中に)真白な衣が乾してある。天の香具山は。

(日本古典文学大系)

春が過ぎて、夏が来たらしい。真っ白な衣が干してあるよ、天の香具山に。

(新日本古典文学大系)

春が過ぎて 夏が来たらしい 真っ白な 衣が干してある 天の香久山に

(日本古典文学全集)

春が過ぎて 夏が来たらしい 真っ白な 衣が干してある あの天の香具山に

(新編日本古典文学全集)

大系と『先生のための古典文法Q&A100』の他には『ベネッセ全訳古語辞典』が(1)かつ(1′)の解釈を採っている。編者は『先生のための古典文法Q&A100』と同じ中村幸弘氏。

奇妙なことに、日本古典文学全集や新編日本古典文学全集は、(2′)のように「来たらしい」と訳しながら、「キタルは来+到ルの約」(全集)「来ルは来+到ルの約」(新全集)と、(1)を示す注がついているのだ。これは矛盾ではないのだろうか。ツイッターで教えていただいたところによると、『旺文社全訳古語辞典』もまた同様の解説をしているという。

それにしてもこうしてみると、果たして古文というのは「読める」ものなのだろうか。このような有名な歌すら、どう解釈していいのかまるで分からない。

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