主日礼拝「2024年1月28日 主日礼拝メッセージ『心が神と一つになっている人々』(II歴16:1-9)」

はじめに

私が仕えている新宿のアットホームな教会「新宿キリスト教会」の主日礼拝の動画です。

不定期になるかもですが、礼拝のメッセージをそのまま分かち合えたらいいなと思って動画付きの記事にしました。

メッセージ動画を先に見ていただいても、文章を先に読んでいただいてもかまいません。

要約というより、私が恵みを受けた事を文章にしています。

メッセージ『心が神と一つになっている人々』(II歴16:1-9)

序論

先週出かけていましたけども、あさ早く妻から電話が入りました。それは私が書いたような、その詩を見つけたんです。けれども、それはあなたが書いた詩なんですかと言って、こういう詩なんですと、そこでその詩の内容を読まれました。で、実はそれは私たちの結婚披露宴の時に、私が歌った歌なんですけれども、妻の心には全く残っていなかったということでした。

その歌詞には十字架とか祈りとか、とこしえの愛とか、一見讃美歌のようなその歌詞なんですけども、賛美ではなくて、この世のただの歌でした。ですから、心の中に何も残っていなかったということは、それは何の問題でもありません。人間にとっての1番の問題は何かと言うと、心の中に神様の御言葉がないということです。それが人間の1番の問題です。ですから、神様の御言葉が心の中に信仰によって結びつけられるそのような必要があります。

心の中に御言葉を信仰によって結びつけたその瞬間に、神の安息がその人に望むようになります。で、魂に安らぎが来ますけれども、じゃあただ自分の内側にそのような安らぎが来て良かったというそういうだけのことでありません。神様が神の安息を与えるということは、神の御力がその人に臨むということです。それで神様の御力が臨んだということは、それが生活の中に現れるようになります。

もしかすると皆さんの中でも、どうして私には神様の力が顕されないんだろうかと、そのように思っていたり悩んでいらっしゃる方もおられるかもしれません。そのような自分自身のその疑問、質問に対する神様の答えは今日のメッセージです。一言で言えば、あなたは人に寄り頼んでいて、神に寄り頼んでいないということ。それが答えなんです。

自分では神様を信じているということはもちろん、神の子供であれば当然なんですけども、100%神に寄り頼んでいるかというと、90%ぐらいは神様に寄り頼んでいるけれども、残りの10%ぐらいは誰かに人に寄り頼んでいるという、そのような状態であると聖書の御言葉にあります。

神様の御力が顕されるということがないということです。それでその心の中に神と1つになっている人々が聖書の中にいますから、それを見ていきたいと思います。まず第1番目にそれはカレブとヨシュアです。

①カレブとヨシュア

このカレブとヨシュアというこの2人は他の人たちとは違った心を持っているとあります。民数記の14章の23節、民数記13章の14章の24節です。他の人、ほとんどの当時の人たちのその心というものを見ると、それは悪い不信仰の心とあります。

神様はその人がどんな心でいるかということ、神様の関心っていうのはただ人間の心にあります。人は上辺を見ますけれども、神様は心をご覧になる方です。ですから、神様に喜ばれる心というのはただ信仰だけです。心の中に信仰がなければ、神様は喜んでくださることができません。ところが、この荒野で生活をしていた民は神様の印、奇跡を間のあたりに見ました。海が2つに分かれるなどという奇跡は私たちも誰も見たこともないような、その経験することがないようなそういうものを見たのにも関わらず、ということです。彼らの大部分の心は悪い不信仰な心。神様の御言葉を聞いても頑固で、かたくなで受け入れようとはしません。神様の約束を聞いても二心があるために、神様を片手で握って、また世の中を片手で握って、というようなそんな状態です。

しかし、この2人の心にあったものは、神様が誓われたその誓いに対して信じたということです。ヘブル人への手紙の6章の17節、「人間は神様に対して誓いますけれども、神様はご自分以上の存在がありませんから、ご自分にかけて神様は誓いをされました。それは何かと言うと、アブラハムに対して、イサクに対して、ヤコブに対して、私はあなたがたとあなた方の子孫を必ず約束の地に導く。この父と密の流れる良い地はあなた方のものである、神様はそのようにして誓われた、その誓いは永遠にそして変わることがない」そのような誓いでした。

このような誓いを、このカレブとヨシュアは信じました。だから、あの地は本当に良い地で、神様が私たちに与えてくださると、そのように約束してくださっているのですから、是非登っていきましょうと、神が私たちと共におられるのですから、恐れることはありません。全く他の大人の人たちとは、この2人は違った心を持っていました。で、神様は約束したその全ての約束を1つも疑わず、皆実現したとあります。

1つもこの約束が地に落ちるようなことはありませんでした。約束を信じなかったこの悪い不信仰の心を持っていた人たち、1人としてこの皆実現した素晴らしい約束を体験することができませんでした。しかし、カレブとヨシュアは約束の地に入ってきましたから、全ての良いことが皆実現しました。1つは神様が荒野ではなくて安住の地を与えられたということ。そして安息に入ったということ。それから敵はもうイスラエルの民を襲ってくるようなそのような危険はなくなったということです。このようにして神様の約束は1つも地に落ちることがありませんでした。

②アサ王

2番目に、今日の本文に出てくるのはアサ王という王様です。で、このアサ王というこの王様も素晴らしい信仰を持っていますから、神様はその信仰に対しての答えは安息です。アサ王がユダを納めていたその時代には、そのユダヤという国家に神様が安息を与えてくださったということ。繰り返し繰り返し安息という言葉がそこに出てきます。で、安息が与えられる条件は何でしょうか。それはアサ王が主の道を歩んだということ。

主の道というのは3つありますけれども、1つは神様でないもの、偶像をみな取り除いて砕いてなくしたということです。2つ目は当時は神様から神の言葉として律法が与えられていましたから、この律法が納められている契約の箱についていく。今で言うならば、私たちが御言葉についていくということです。どんなに不可能だとそのように思えたとしても、契約の箱が進んでいったならば、その契約の箱の方向に私たちの人生を向けるということです。それから3つ目には祭壇を築いたということ。祭壇を築くということは、神様を礼拝するために生贄をほふったということです。この今の私たちで言うならば、礼拝ですから、自分自身を生ける供え物として神様に捧げること。それが主に喜ばれる霊的な礼拝です。

神様はこのようにして主の道を歩んでいる契約の民に対しては必ず安息を与えてくださいます。それでアサの心というものを見た時に、その心は完全だったとあります。第2歴代史の15章の17節。完全であったということは、神と全くその心が1つになっていたという意味です。驚くべきアサの心の状態です。で、どれぐらいその心が神と一つになっていたのかという具体的な例は祈りを捧げたということです。で、大軍が自分たちの国に押し寄せてきた時に、神様の前にアサは祈りました。神様にとっては強いものを助けるのにも、弱いものを助けるのにも同じではないですかと私たちは完全に主に寄り頼みます。主の御名によって私たちはこの大軍に当たりますと言って祈って、そして神様はこのアサの祈りに答えられて勝利が与えられたとあります。このような経験をしました。

それから自分の母親が王母ですから、母親が高いポジションについていました。ところが、その母の心の中にあったものはアシラ像という偶像に仕えていた、そのような自分の母親でした。それでアサはその自分の母親であるにもかかわらず、その自分の母親をその王母というその王の母というポジションから知りのけたとあります。心が神と全く同じになっていました。そのような状態がアサが王座についたその時からいつも神様の目で見られる時に、神様が良いと思われるようなことを全て王はしていたということです。ところが、神とその心が完全であったというこの時代は35年で残念ながら終わってしまいました。

36年目、アサの生涯が35年で王座が終われば、その心は一生涯完全であったというその御言葉の通りなんですけども、しかしその御言葉がこう書かれたんですけれども、アサは36年目に入りました。それが今日の今読んでいただいた御言葉です。36年からそれから6年ぐらいまだ王位についてますけども、ここでアサの心に変化が起こってしまいました。

それは何でしょうか。同盟を結んだということです。他の国と同盟を結んで私たちを助けてくださいとそのように援助を申し出たということです。この同盟を結ぶというこの意味していることは、神様に寄り頼むことを私はやめて人に寄り頼みますということのその心の現れが同盟を結ぶということです。ですから、その心が神様から離れてしまったということです。

預言者は前もってあなたが神様を求めるならば、神様はいつもあなたと共にいますけれども、あなたが神様を捨てるならば、神様はあなたを捨てますとそのように預言者がアサに前もって警告を与えました。けれども、しかしその警告がアサには届かなくなってしまいました。それでアサは16章の3節に同盟を結んだということは先ほど読んだその本文にありますように9節主はその目を持ってあまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く1つになっている人々に御力を表してくださるのです。あなたはこのことについて愚かなことをしましたと、愚かな決断をしたということです。

これからは神様の平安が安息が取り除かれますから、その国に周りから敵が襲ってきますということを前もって予告されました。で、これだけではなくその次にアサ王のその体が病に犯される非常に重い病気にかかったとあります。で、この35年間のアサであるならば、そのような、もし重い病気にかかったとしても、あなたにとっては重い病いを癒すことも、軽い病いを癒すことも同じではありませんか。私はあなたにより頼みますとそのように言うはずだったんですけれども、もう心が神様から離れてしまいましたから、主を求めず逆にとあります。主を求めるのが先であるべきなのに、主を求めず逆に医者を求めたとつまり人間に頼ったということです。クリスチャンにとっても非常にそのところは重要なことでやはりもう体質的に体が具合が悪いというとすぐに医者、病院、薬というそういう考えになってしまう。そして実際にそういう風に行動してしまうそういう神の子供たちもいます。

しかし、まず最初に神の子供であるならば、まず主を求めるようにとあります。神様、私はこの病気です。神様、私に見ておいて、癒してくださいとそのようにまず言ってから、主を求めてから必要であれば医者を助けとして求めれば何の問題もないんですけども、主を求めずに逆に医者を求めたと、これがその心がどれほど神様から離れてしまっているかということの証拠です。それで神様の御力が離れてしまったのは、アサ王に臨んでいましたけれども、もう同盟を結んだその瞬間から神様の御力離れたということです。

③私-キリストの心

それで3番目に、自分自身の心というものがどういう心であるのかということです。キリストの心があるのですと、コリント人への手紙の2章の16節に、「私たちにはキリストの心があるのです」と書かれています。生まれつきの私たちはもちろん誰1人としてキリストの心を持って生まれたという人はいません。しかし、ある日、イエス様がキリスト、この福音を聞いて心を開いて、イエス様を心の中に受け入れました。その瞬間、キリストの心がその人の中に入りました。その証拠が御玉の思いとあります。ローマ人への手紙の8章の27節で、それが受け入れた神の子になったその人が自分で親と思うようなそういう体験をするはずなんです。

私たちはこの世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。神の御霊がその人の中に内入したということの証拠は、以前は完全な肉でした。肉であったということは、私たちはいつも私の肉と心の欲のまま生きていたというそういう人生を歩んでいました。そのような自分の心の中に神様の御心があると、あこれが神様の御心なのか、これが神様の計画なのかと、全く考えもしなかった思いもしなかったようなその思いが自分の心の中にあるということが発見した時に、私には別の心があると、今までの心とは違う心があると自分が分かります。

先週、ある方が証しをしていましたけども、自分の心の中にあるその夢とか願いは、好きな国があるそうですけれども、その国に旅行に行きたいともうそういう思いが自分の中にはいっぱいあるとで、それは事実だと思うんです。しかし、自分はそのようなその夢みたいなものは天国に行けば全て叶うから、私は残されている地上の生涯を伝道と宣教に向かいたいとそのように証しをしていました。それは生まれつきの人間の心にはないことです。それによって、キリストの心があるということが分かるようになります。

それから、御力の技があります。で、それまでは生まれつきの私たちは皆いつも自分の技だけで生きてきました。私のこの力で一生懸命何かをという全てが自分の技でした。しかし、御霊を受けたということは神様からの力が与えられましたから、その人に神の御業が与えられます。で、この神の御業というのはイエス様がキリストであるということの証人とする。それが神様から与えられた力ですから、その人は福音を伝えるようになります。

で、その福音を伝えてるそのこと自体がもうすでに神様の技、イエス様がおっしゃったように、私が何かをしているのではなく、私のうちにおられる父がご自分の技をしておられるのです、というように、例え伝動しているのが私であったとしても、それは私がしているのではなく、私のうちにおられる主がご自分の技をしておられるのです。

全て神の、それは栄光を表すそのように、自分がしているのではないと、そのように本人が思えるような働きです。それから最後に、御子の心というものがあります。ピリピ人への手紙の2章の5節に、御子のうちにあったイエス様のうちにあったその心というものはどういう心でしょうか。それは自分のことだけではなくということです。イエス様は神の御子ですから、そのままご自分のことだけを考えるならば、天にとまっても何の問題もありません。しかし、御子は神の形であったのにも関わらず、人となってこの世に来てくださり、死にまで十字架の道まで従われましたとあります。それが他の人のことを考えたということです。

人間を考えると、人を見る時に、自分が愛しているその人々が偶像礼拝してこの世の流れに流されながら、ただ自分の肉と欲のままに死んでいくというものに対して見るに忍びない哀れみの心、愛の心がこの御子にある心です。だから私たちの中に同じその御子の心があるということは、隣人を愛しなさいと以前は自分のことだけでもう精一杯で、人はどうなったとしても、そんなに自分は関係ないと自己中心の心、自分さえ良ければという創世記3章の心というのはそのような心です。

ところが、隣人を愛しなさいというその思いが神の子供たちの中にあるということ自体が、自分が持って生まれたそのような心ではありません。で、人たちを見る時に、一体この人たちを愛するということはどうすればいいんだろうかと当然考えます。お金を与えたらいいんだろうか。何か物質をプレゼントしたらいいんだろうだろうか。

もちろん、そのような愛も当然あると思います。助けてあげる、あげたいと思うものもたくさんあると思います。しかし、どんなにこの世のものを提供して助けてあげて、相手の人がありがとう、感謝しますと言ったとしても、全てそれらのものはまたなくなってしまうものです。本当にこの人に1番有益なものは何かということを考えたならば、この人に自分が受けて1番有益だったもの、それがその人にとって福音であるならば、福音を与えようとします。私にとってお金が嬉しかったと思う人は、お金を与えるでしょうし、何か物を持って嬉しかったという人は物を与えるでしょう。しかし、私にとって福音以上に素晴らしいものがなかったとするならば、当然福音以外にその人に与えたいと思うものは1つもないはずです。

それで、99.9%の異邦人が今御言葉を聞くことができないで植かいているという時に、この人には本当に御言葉を伝えてあげたい。そのように、そのキリストのうちにあったその心が信じている皆さんのうちにあるならば、自分の方からですね。この人に対して御言葉を伝えてあげたいという、そういう内側からその心があるならば、それが伝道とか宣教という形になって現れるようになります。

それで、主は今も全地を見渡して、どこに本当にキリストの心を持っている人がいるだろうか、本当に人に寄り頼むことをやめて、主にだけ寄り頼んでいるそのような心を持っている人はいるだろうか、探しておられます。で、見つけたならば、当然神様はその人にご自分の力を与えたいと願っておられます。イエス様は最後までの心に従って、死まで十字架の死で従われました。そして最後に十字架で、父を私の霊を委ねますと、完全に神様に寄りたみました。その時に、その御子の祈りを聞かれた父は、全能の力をキリストのうちに働かせて、死者の中から蘇らせたと神の御力が御子のうちに働きました。

私たちがただ神様だけに寄り頼んでいるならば、当然神様はご自身の力をその寄り頼んでいる子供に与えてくださいます。もし与えなかったとするならば、神様は真実な方ではありません。ご自分がそのように約束をされているのに、与えないっていうことは絶対にありえないことです。それで、私は本当に弱くて何もできませんけれども、主が全てのことをしてくださることを信じます。そのまき信仰を持って、神様の前に、私たちが祈ったならば、主はご自身の未を表してくださると信じます。また、皆さん1人1人も信じる心を持たれますように。主の皆で祝福をお祈りいたします。それでは、お祈りします。

父なる神様、恵みを感謝いたします。私たちは虚しい人間に頼ることがないように、本当にただ主にだけ全てを寄り頼んで、残る生涯を生きていきたいとそのように願っています。神様、どうか私たちの1人1人の心の中をご覧になり、全く信仰を持って主に寄りたんでいるその心に神の力を臨ませてください。主がそうしてくださることを信じます。イエス様の名前によってお祈りいたします。アーメン。


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