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刹那的に過ごす

どうも皆さん、今回も読みに来て頂いてありがとうございます。只今3/4土曜、時刻は15:34です。前日の夜に急遽予定が無くなって、今日は久方ぶりにスローライフな1日を過ごしています。この文章を書いている頭の回転率も、普段より格段に緩やか。一挙手一投足全てが亀の歩み。休みを暫く設けていなかったため、今日は気分転換の意味で「何もしない」を敢行しようと思っていました。結局既に何かしてしまったんですがね。

皆さんの「休み」の概念ってどんな感じですか?

僕にとっての「休み」は「家から1歩も出ないこと」を指しています。休日に外に出かけることって本当の意味の「休み」じゃないでしょってのが僕の考え。自分が好きなイベントに行ったり、旅行に行ったりする行為が楽しいのはわかります。僕も過去に同じ行為をして同じ感情を抱いたことがあるので。

「休みの目的」ってのは主に二極化されていて、体力ゲージの回復と精神ゲージの回復どっちにウエイトを置くかってことだと思うんですよ。僕は両ゲージを回復できる「自宅待機」が最良判断なわけですが、周りの知り合いを見てて思うんです。「日帰り旅行行く人たちハンパねぇ」。体力ゲージを犠牲に精神ゲージ回復を優先する人、なんなら外出して両ゲージ回復して戻ってくる人。まぁ正直外出して2時間睡眠くらいで翌日仕事も乗り切れないことはないけど、目先の楽しさの前借りをした分、後からツケが回ってくる。この部分こそまさに、今回のタイトルでもある”刹那的な”生き方なわけです。


・・・話は最初に戻って、このnoteを書いている3/4の朝起きた時、まさに刹那的な生き方の選択をしていました。「何もしない」。この「何もしない」という選択をした時の気分転換云々の理由なんて後付けの正当化されたもので、根本は「何もしたくない」という怠惰からの起点。でも結局今日はこうやってnoteを書いているし、筋トレとランニングも済ませ、これからドラムも叩きます。


刹那的な生き方は後悔の種。


僕が今までの人生で培ってきたことです。刹那的な生き方を選択した後に後悔しなかったことなんてないんじゃないかな。少なくとも僕は、感情に任せて動いていても実りを得られたことはほぼなかった。これを知っているから今日の僕は”活動する”という選択をしたわけです。

ここで1点喚起しておくと、”刹那的”と”フッ軽”は混同したらいかんぞ。”フッ軽”というのも、言ってしまえば”刹那的”というカテゴリーに内包される同属性のポジション。その場の判断に身を任せる行為でも実りの大きさは段違い。今その判断を選んだ時、今後の自分にどんなメリットがあるのか。もはやそんなこと考えられるなら特段問題ないとは思いますが。


結局罪悪感から逃れられず、今日も活動していきます。切り替えが大事だとは言われますがね…。

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