ほとけやまの謎~田園都市線~青葉台~

 どこの街にも、まことしやかにつぶやかれる噂というものがあったり、昔はと語られる場所がある。田園都市線青葉台駅、日本一混雑すると言われる田園都市線の中核を担う駅で、商業施設の立ち並ぶ如何にも東急田園都市線の駅という街並みである。ここにもそういう噂があった場所があり、今は商業ビルが建ちその面影は地形的なものでしかわからない、その場所はかつて仏山と呼ばれた場所でした。
子供の頃、大人達は火の玉を見たという話しや、工事を始めようとすると必ず事故が起きて中止になるというもの、生首が飛んでくるのを見たという幽霊話など、よくある都市伝説的な話ではある。お決まりのように、誰もが何故そこが仏山と呼ばれ、何故祟りまがいな謂れがあるのか?首切り山であったとか、処刑場であったとか云うあやふやな情報しかなく、具体的に誰が何時?何故?という踏み込んだとこの答に至らなかったのが凄く歯がゆかった。
あれから、40年余り経ち、一つの仮説が成り立つんじゃないか?と思い、ここに書き記しておこうと思った。
仏山の文言は、新編武蔵風土記稿という江戸時代後期に編纂された調査報告書のようなものの中、恩田村の項に出てくる。村の中央にある小高い山が仏山で、頂上に古い石碑があるが文字は読めないと書かれている。石碑、この山の謂れが彫られていたかもしれないが、今となっては石碑すらない、ただ村の西方、現在の恩田方面に掘の跡があり村人は城跡と言い、古い陶器などが出土したという、そして馬場という小名(村内にある地名)と同じく牢場という小名があると書かれている。
現在の恩田城跡と言われている場所は福昌寺という説もあるが、なにせ堀之内と呼ばれている場所はその福昌寺を中心とした広い領域を指し、堀がどこにあったかは不明、奈良川が眼前にあることから天然の水堀もあり、要害として機能することは想像できる。恩田城の現在の場所は、あかね台1丁目あたりで、馬場と呼ばれている箇所は現在の田奈町、この近くに牢場があったのだろう、かなり広い領域である。これを城と仮定するならば、防御施設の在り方が、多方面というより一定方向しかないことで、何故築城された城なのかが見えてくる気がする。むしろ、城と云うよりも、陣と言った方が適切なのかもしれない推測でしかないが、この陣は永享の乱(1438)に対して造られた陣なのではないだろうか?
恩田城から直線で中山方面に3㌔ほど先に榎下城跡という現在旧城寺という寺がある。察しの通り、この榎下城を居城にした宅間上杉家に対して、急造したのが恩田の陣ならば、スムーズに話がまとまると思う。
永享の乱の説明をする前に、歴史小説を書く気はないので大まかにざっくりと乱暴な書き方でこの城と歴史背景を説明する、時代は室町時代、室町幕府の特異な部分は南北朝と同じく、室町幕府と権限を二分した鎌倉府の存在である。細かい経緯は省くとして足利尊氏と弟直義は室町幕府の礎を築くも、観応の擾乱で対立し直義は死す、直義の構想である幕府と独立した機関である鎌倉府は奇しくも、尊氏の長男義詮が二代目将軍となり弟基氏が京より下向し、初代鎌倉府の公方となることで幕府・鎌倉府体制が確立するが、次第に鎌倉府は独立性を高めていき、幕府の指令の届かない機関になってしまう、三代目鎌倉公方足利持氏の代になると、それは顕著で関東管領犬懸上杉氏憲(禅秀)の家臣の所領を勝手に没収したことに氏憲は持氏に猛烈に抗議するも、逆に持氏は氏憲の対立相手である山内上杉憲基を関東管領にして、氏憲を職から解いてしまう、これに怒った氏憲は応永23年(1416)禅秀の乱を引き起こす、この時はまだ幕府は持氏側に協力し、犬懸上杉家は滅亡するに至る。
上杉家は4家あり、滅亡した犬懸上杉、関東管領山内上杉家、扇谷上杉家、そしてようやく、榎下城を居城とした宅間上杉家である。
鎌倉公方持氏の側近として仕える宅間上杉家の6代目当主上杉憲清が永享年間(1429-1441)に築城したと言われている。
自分も子供の頃、この城跡にある旧城寺に訪れたことがあって、本堂は茅葺屋根であったことを覚えている。実に雰囲気のいい場所だった。この小丘の小城は丘に造られた武家屋敷という感じものだと思う、7代目宅間上杉憲直の時、鎌倉公方持氏はますます増長の一途を辿る。将軍に対し馬鹿にするような発言や将軍に伺い立てるべく事を悉く無視する。これを諫める関東管領山内上杉憲美を疎ましく思い、遠ざけ始め、仕舞には持氏が憲美を討つという噂までが聞こえるに及び、憲美は関東管領職を辞する。
持氏の行動はエスカレート、息子の元服に際し将軍家への慣例をまたもや悉く無視し、現将軍足利義教への当てつけともとれる行動に辟易した憲美は、元服式に出席せず、自らの領国へ帰ってしまう、これを反旗と見た持氏は、上杉憲美討伐軍を発する。これが永享10年(1438)に勃発した永享の乱である。宅間上杉憲直・憲家親子も榎下城を出て、持氏に従い兵を起こすが、よほど腹に据えかねていたのか将軍足利義教は早々に上杉憲美の救援軍6万と天皇より治罰綸旨を受け、軍を発する。持氏は朝敵として追討軍の襲来をうけることになるが、大軍を前に持氏率いる鎌倉府の兵は散々に破れ、憲直・憲家親子は相模金沢の称名寺で自刃して果てる。
ここからが、仏山の推察になる。上杉憲直は榎下城をもぬけの殻にしたわけでなく、守備兵と女子供を残していたはずで、その後も宅間上杉家は滅んでいない、8代目当主になる定重はじめ、相当数の郎党もいたと思われる。
また、恩田村からも下男や下女として城に差し出されているものも居ただろう、この恩田村にとっても榎下城は政の中心地であったことは容易に想像できる。
6万の大軍は各地へ、持氏方の残党狩りを行い、恩田城のあの陣もまた、宅間上杉家の残党狩りの一軍が構築したものなのかもしれない。
今だに状況を掴めないまま、定重らは榎下城から脱出したのであろう。残る僅かな兵と、村から差し出された者達も外の様子を知る術はなく、ただその城にいただけなのかもしれないが、幕府方は用心して陣を張り、榎下城を包囲し、残党を捕縛し小名である牢場へ引き出した。
仏山と同じく、近隣には地獄田という字、餓鬼塚という塚が残っていたがこれらが、関連事項なのかどうかはわからない、但しこの近辺で起きた事柄のなかでは、一番生々しい事件であり、恩田村にとっては非常に印象深い出来事となったのは間違いないと思われる。
その後、残党に刑を処した後、仏山に晒したのだろう、村人は鎮魂の意味で石碑を安置し仏山と命名、人々は刑場として記憶し伝承から都市伝説的な噂に結び付いたのかも知れない、反面その噂話によって守られてきた仏山も今は街の一角になり遠い昔の悲劇を伝えるものは、僅かなその噂話だけになってしまった。

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