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「走ること」に関わり続け、活動し続ける岩田豪さんにインタビュー!

岩田豪(いわたごう):さくら組:http://team-sakura.net/
兵庫県加古川市出身。1999年 西脇工業高校 卒業、2003年 東洋大学 卒業

主な成績:2002年 関東学生陸上競技対校選手権大会 1部ハーフマラソン 8位
    2002年 全日本大学駅伝 総合5位 6区区間4位
    2003年 箱根駅伝 総合6位 10区区間2位(10区ごぼう抜き最多記録)

同郷で高校の後輩、岩田豪さん。西脇まで2年間共に通いました。帰りは疲れている中、大抵は一緒で、沢山話し、学ばせて頂き、私自身の「何か」も気づかせてくれる存在でした。それから20年以上。相変わらず良い先輩ではないと思いますが、それでもお付き合い頂き、様々な岩田氏の活動に着目しております。

今回も、いきなり「インタビューさせてくれ!」という申し出を快く引き受けてくださいました。非常に感謝しております。是非、彼の活動に注目、想いがのったお話を読んで頂ければ幸いです。

聞き手:ランニングアドバイザー神屋伸行

Q.高校はなぜ西脇工業を選ばれましたか?

 中学2年生までは「ランニングを楽しむ」仲良しな雰囲気の部活として満喫していましたが、3年次に転任されてきた顧問の下、「勝つ楽しさ」を求めるようになり、3ヵ月で全国大会へ出場できるほどに育てて頂きました。

当時は加古川市内の高校へ進学したいと考えていましたが、西脇工業高校顧問であった渡辺公二先生と初めてお会いした時、「勧誘の言葉がないお話」を頂きました。中学の顧問からは「行くと返事するまで先生は来ると思うよ。」と言われ、さすがに2回も同じ話は嫌だと思ったので「西脇工業へ進学します」と顧問へ告げたのが西脇工業を選んだきっかけです。

また、その中学顧問が前年まで神屋さんを指導されていたこともあり、「お前も西脇工業へ行け。神屋もいるし、これまで勝てなかった選手と切磋琢磨し、毎日勝負ができるぞ」と後付け的な動機を植え付けて頂きました(笑)


Q.実際に西脇工業高校へ進学してどうでしたか?

 良かったと思います。この3年間があったからこそ、大学時代の浮き沈みに耐えられたのかもしれません。加古川市内の高校へ進学していたら、また違った道へと進んでいたのかもしれませんが。

 1年時は先輩方の陸上競技に対する真剣さに比べ、自分の考えの甘さを痛感していて、何度も辞めたいと思いました。なんとか辞めずに続けていましたが駅伝シーズンになり「西脇工業は勝って当然だ」という思いの中で、厳しかった先輩方が県駅伝で負けてしまったのを目の当たりにし、甘い考えを打ち砕かれた年でした。「そんな甘い世界じゃないんだ…」とさらに痛感させられました。記録としては、なんとか先輩達に置いて行かれないように走れるレベルだったと思います。

 いつ頃からかは忘れましたが神屋さんと加古川駅から共に帰宅するようになって、存在にすごく支えられた2年目がありました。僕自身には到底持ち合わせていない陸上競技へ対する思いや厳しさと、学校では見ることができない優しさで指導して頂き、「僕もメンバーとして駅伝を!」と思うようになれました。

 競技レベルとしては春に靭帯を断裂したこともあって駅伝メンバーに選ばれることはありませんでしたが、違う路線でロードレースを転戦させて頂き、自分の心の中に「これだけのタイムで走ればメンバーだって焦るだろうな。来年こそは…」という目標が生まれてきました。実際に各地の大会で優勝することができるまで走れるようになっていました。
 また、僕の競技歴の中で一番「意識が高い」チームだった年だと思います。「プロは勝って和ができる。アマチュアは和があって勝てる。」という渡辺先生の言葉で区別すると、勝つことに執着した意識のすごく高い「プロ」チームでした。(先輩方が怖過ぎて、チームの雰囲気が…(笑)

 最後の年は神屋さんから実際にあれこれとしてもらったわけではありませんが、「後輩に何かをしてあげられる先輩なのか」ということが頭にありましたし、副キャプテンとしてキャプテンのサポートをしつつ、自身のパフォーマンスを上げられるように心がけていました。高校生として、競技者として気持ちが充実していたからか、多くの大会へ出場したわけではないので記録は2年からさほど伸びていませんが、大会では記録に残らなかったけど納得できる結果を残すことができたように思います。チームの雰囲気は前年をはるかに上回る良さでした(笑)。

 ただ、残念ながら最後の学年でもエントリーはされましたが、駅伝を正選手として走ることができなかったので、今でも高校駅伝を走っている選手を観ると羨ましく思います。チームとしては先輩方に続いて全国高校駅伝で優勝することができ、大会2連覇という成績を残せたのは西脇工業へ進学して良かったと実感できた瞬間でもあり、進学前に思い描いていたことから気を緩めることのできた瞬間でもありましたね。

Q.大学で満足感はありましたか?

 最後の1年までは満足感はありませんでした。むしろ後悔ばかりで(笑)
 入部した当初、西脇工業以上の体育会特有の雰囲気に嫌気がしましたし、Aチームの練習に合流しようにも西脇工業卒という肩書があるからか周囲からの風当たりもきつかったり、僕自身の性格から当時の監督から良い評価をもらえていなかったように感じました。なにより、その肩書に自分自身が苦しめられているような気分でしたね。インタビューで想いを吐き出すととにかく終わらなくなるので、ひとくくりに3年終了時までは不満・後悔ばかりでした。ですが、3年の箱根駅伝予選会で2年連続予選落ちが決定した時、僕自身の中では「落ちて当然だったかな」という思いがあったので、何ができるかはわからないけど「何とかしたい」という漠然とした考えで新チームの主将を引き受けました。

 新学年になる前に監督が川嶋伸次さんへと代わり、主将はやめておけという指示と「自分から言いだしたからには…」という葛藤がありました。しかし、残りの1年を無駄にしたくはなかったので自分のプライドより世界の舞台を知っている監督の言葉を信じて練習に取り組むことにしました。その結果、4月の大会や5月の関東インカレで大幅に記録が更新できたのでそこからは納得のいく競技生活を送れたと思います。6月には全日本大学駅伝予選会で出場権獲得、11月には箱根駅伝予選会で3年ぶりの出場権獲得に貢献できた上に全日本大学駅伝ではシード権確保という結果も得ることができました。1月には最初で最後の箱根駅伝で総合6位という18年ぶりの結果を残し、個人的にも区間2位という好成績を残すことができたので非常に満足でした。

不満があるとしたら、主将でシード権確保に尽力できなかったということでしょうか。まぁ、そこはワガママを言っても仕方がありませんけど(笑)。あとは、閉会式に神屋さんから届いたメール「おめでとう」の言葉だけだったのが…(笑)

Q.実業団に進まれて何を目標に、どんなモチベーションで走られていましたか?

 実業団に進んだ時の目標は今になって思い出すと特になかったのかな、と。大学時代にお世話になった治療院のおかげで箱根駅伝で結果を残せたようなものでした。それまでに腐りそうになっていた僕を叱咤激励してくれたトレーナーさん達のおかげだったので、大学卒業後は専門学校へ進学して鍼灸師を目指そうと思っていました。

 ですが、川嶋監督から「せっかく大学の大会で入賞できるレベルまでになったんだから、自分の可能性を試すために実業団へ行ってみたらどうだ?そこでお金を貯めつつ、上のレベルへ挑んでみろよ」と進路先を見つけてきてくださったのもあって、具体的な目標を立てないまま進んでしまったのかなと思います。モチベーションは決して高くなかったと思います。スタッフ陣と意見の食い違いがあったので…。けど、言い訳でしょうね。まだまだ中身が子供でした。これを正直に話してしまうと格好が悪いので、インタビューではないところでお話したいと思います(笑)

 世界を目指せるレベルではないと自覚していたので、どこか諦めてしまっていたのかもしれません。明確にプランを立て、それに合わせて我慢して練習に取り組んでいけば、それまでと同じように何か良い方向へ転がっていたのかもしれませんが、「箱根駅伝へ出場する」という目標が達成された後、それを超える目標を見出せないほどにモチベーションが低かったんだと思います。


Q.引退後マラソンを走り続ける意味を教えてください!

 陸上競技を嫌いになって辞めたのに、こうしてまた走り続けています。やっぱり「走る」ということが本当に好きなんだって実感していますし、競技者として過ごした十数年の身体なのに、現在の思ったように動かなくなった身体にショックを受けているので、健康維持のために走っていることが1番の意味かもしれません(笑)日常生活のストレスを走ることによって解消できるっていうのもあるかもしれませんね。気軽に楽しめるスポーツとしてランニングを選んだのだと思います。

 それと実業団を辞める前に「競技じゃないランニングも楽しいぞ♪」と、楽しそうに大会を走っている川嶋さんから声をかけてもらったのもあります。あとは世間に広まっているランニングの練習理論について思うことがあるからかもしれません。「僕がやってきたことはこっちの世界でも通用するのかな」って思って走っています。

Q.アスリートと市民ランナーの違いはどこかにありますか?

 アスリートは結果を出すために生活のすべてをランニング中心に考えています。そこで生活をするために必要なものを企業からいただいている。競技に集中できる環境にあると思います。

 それ以外のランナーは生活をするために働かないといけないですし、家族もあります。ランニング中心に生活をするといろいろな部分で支障をきたしますよね。生活をするための陸上競技なのか、生活をする中での陸上競技なのか。ランニングに対する在り方から違いますよね。

Q.そういった環境の違いの中、アドバイスや向き合う時に気を付けることはありますか?

 僕はこれまでに沢山の方々から支えられ、陸上競技の頂点からいろんなレベルを経験することができました。快く陸上競技へ取り組ませてくれた両親や、各年代で良い方向へ導いてくれた恩師や仲間、一緒に競い合ってくれた言葉も交わしたことのない同世代がいてこその経験です。

 その自分にしかない経験を「現在、ランニングを楽しんでいるランナー達に還元したい!」と思っていますし、競技者目線で何か発言をすると偉そうに言っているように聞こえてしまいますので、できるだけ同じ目線、同じ立場に立って発言しようと心がけています。僕自身、偉そうに言われるのが嫌いなので(笑)

 僕がそこそこの練習量でマラソンを走り続けている意味は、そういうことが頭にあるからかもしれません。実際に、少し本格的な練習をすると僕の発言は少し競技者寄りになってしまいますしね。

 あと、ランナーは「アスリートだから特別だ」と思われているところがあるような気がします。それでいて「アスリートが取り組んでいるから」と真似をしようとしています。都合が良いように溝を作ったり埋めたりしているところが不思議なので、専門的な言葉をできるだけ使用しないで溝をなくせるように説明しています。

 何も特別なことはなく、基礎基本をバカにしないで取り組んできたからこそ、そのレベルにあるのだと感じていただき、そのレベルに少しでも近づけるようにして行けば、タイムを縮めていくこともできると信じています。

 そのため、「市民ランナー」という言葉は使わないようにしています。陸連登録をすればアスリートが出場する大会も参加資格タイムを切れば走れるようになりますし、そのようなレベルの人へ向かって「市民ランナー」と呼ぶのは違うかなって思っていますので。うまく言葉では表現できませんが。

 トップ選手の練習方法がフォーカスされていますが、練習方法だけではなく取り組みにも注目してもらいたいですし、考え方にも様々あるということを理解していただいて、「楽しく」かつ「できるだけ速く」から「とにかく速く」までに対応できれば…と常々考えて接しています。

 しんどいランニングを続けるためには、やっぱり「楽しく」がないと続けにくいのではないでしょうか。高校時代に教えていただいた「プロは勝って和ができる。アマチュアは和があって勝てる。」ということが今でも心に残ってますし、中学時代に陸上部へ入った頃の「仲良し」が僕の中でしっかりと根付いていますから。

 同じ目線に立って話をすることで、小さな悩み事でも話してくれるようになると思っています。

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神屋伸行/加古川優考塾/走遊Lab代表
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