聴覚障害×当事者研究その②(kento_03)

聴覚障害×当事者研究

さて、前回投稿した以下の記事の続きを書いていきますねー!


今回は、熊谷晋一郎先生(東京大学先端科学技術研究センター当事者研究分野准教授)の講演内容を書いていきます。熊谷先生一人だけの話だが、これまた最高にボリューミーたっぷりで中身も非常に濃いので、かなりの長文になります笑

最初に断っておきますが、かなりの量と質なのに、急いでベタ打ちで打ったので、内容にまとまりがないところや分かりにくい部分もあるが、勘弁していただけるとありがたい…

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■熊谷先生
聴覚障害当事者研究の実践から見えてくるもの

1)「わたし」を形作る要素は以下の2つでできている。
(今回の話は、この2つの要素があることを大前提として話すので、しっかり読んでね!)
①わたしだけの「からだ」(その人の身体そのものを指す)
②わたしだけの「物語」(その人にしか書けない「ストーリー」を指す)

しかし、子どもにとっては、以下であり、
①わたしだけの「からだ」
②親・社会の「物語」
※②を①に押し付けている状態に近い。つまり、親・社会はその思いや考えを子どもに反映させようとしているという意味である(まだ非力な子どもは親・社会の思いや考えに影響を受けやすい)。

上記を踏まえて、次のお話を読んでいただきたい。

2)健常者の動きに近づけるようにするためのリハビリ(歴史)
・1950〜1960年代:本人の「体」に介入する方法であった。つまり、手術やストレッチなど物理的に健常者と同じようにさせる。現実的に無理なのに、無理やりさせるので、本人にとっては身体的にも精神的にも苦痛な状態であった。
・1970年代:本人の「心」に介入する方法であった。つまり、「頑張ればできる」という根性論なものなど。しかし、できなかった時にその原因を「気持ちが足りない」など人格的なものに見出すようになり、結局これもまた本人にとっては身体的にも精神的にもかなりきついものであった。
障害者が健常者のようになる高すぎる目標を掲げると、目標と現実の大きな乖離によってこわばりや焦りを生み出し、より悪循環に陥る。例えば、「自分自身への信頼」、「社会・他者への信頼」が失われていくようになり、心理的にも厳しい状態になる。
・近年:障害の考え方が、従来の医学モデルから社会モデルに代わり、心理的にも楽になる。社会の考え方が変わると、劇的な効果を生み出す。
つまり、最初の話を例に持ち出すと、
①わたしだけの「からだ」
②わたしだけの「物語」
※①で②を書く。というわけである。(自分の人生を自分の思いのままに生きる、ある意味最高の生き方のことである。)

3)スティグマ
気づかれにくい障害とは、それを説明する物語があまり流通していない障害とも言える見えにくい障害)。
(見えにくい障害であるAPD当事者による困りごとから抜け出すプロセスを発表する意味では素晴らしい。)
スティグマの3つの種類
①公的スティグマ:非当事者が当事者にもつスティグマ(例:健常者が障害者にもつスティグマ)
②自己スティグマ:当事者が当事者にもつスティグマ(障害者が障害者にもつスティグマ)
③構造的スティグマ:公的スティグマや自己スティグマが生み出されるような社会の仕組み。
帰属理論:本人の努力や心がけで変えることができると誤って信じられている見えにくい障害は、スティグマを負いにくい。

障害におけるスティグマ理論を抜け出す意味では当事者研究は有効である。なぜなら、見えにくいものを具体的に見える化することであるので、大変貴重な研究であるから。
ちなみに、スティグマが世界中で注目されているが、その理由は人を殺すからである。例えば、普段からスティグマを抱えている人は寿命が短いなど、様々な負の問題があることも明らかになっている。(なんと恐ろしい…)

スティグマのレッテルが貼られやすいのは、「困った人」ではなく「困っている人」。すなわち、困った人はそもそも周りから気づかれにくい。

4)依存について
「自立」の反対語とは、なんだろうか。「依存」?
障害者が依存できるものは健常者に比べて少ないし、その依存性は高い。なぜなら、施設やデザインなど全てが健常者視点で作られているから。
例)高い建物にいる車椅子の人が震災で避難しなければならない時に避難方法がエレベーターしかないこと。
その視点から考えると、自立ができるとは、依存できるものが多くて、それぞれに依存する割合が低いということである(自立とは依存先の分散がどれだけできるかどうかということである)。

障害者とは社会的に弱い立場なので、親や友人と言ったように周りに依存することが多い。その時、その人との関係性が悪くなると、依存先を切り離すことになり、もし元々その人にしか依存できない場合、その人と何かがあったとしても諦めるか泣き寝入りするしかない。

親子関係はかなり脆いものである。障害のある子どもにとって、親は数少ない依存先であり、それを壊すとまずいから、情報公開の不足(怖い、嫌だなど)が起こってしまうことがある。そして、それによって親から子どもへの厳しい教育をするが、それが暴力に近い形となることもある。

5)自分自身を見つめ直す・作り直す
ある時、自分の体に起こる原因不明の変化が起こると、日常生活の中であらゆる動作にためらいと慎重さが起こる。
①わたしだけの「からだ」の変化
②わたしだけの「物語」

脳性麻痺の人は、そうでない人に比べて疼痛障害の発症年齢が早く慢性化しやすい(慢性疼痛とは、痛みの記憶の持続であり、その記憶を消去することができなくなった状態)。
PTSDは虐待被害者が慢性疼痛になるかどうかに影響を与えるだけでなく、痛みの慢性化のリスク要因でもある。

破局的思考:「この痛みさえなければ自分の物語を続けられるのに」という思考
これが生じる理由は、自分の物語の破局から痛みが生じるから。
それを解決するのが日記などで自分の変化などを言語化して自分自身と向き合ってなぜだと問いかけていくこと。しかし、実際これは誰にでもできるものではないらしい。

6)共同的な子育て
当事者研究発表で子どもから親に対する親子の関係があったが、逆に親から子どもに対する親子の関係の研究も始まるのではないかと思う。
最近、親同士で子育てを共同的にする流れがある。子育てをする上で大事なことは、お互いに「正直に分かち合う空間」があることである(お互いにしっかりと向き合える状態であること)。
共同的な子育ての意義
・親が暴力の加害から逃れられる。
・子が暴力の被害から逃れられる。
・子が多くのナラティブに触れられる。
・子が親の背中を見て、「困った時には人に頼っていいんだな」と他者や社会への信頼感を持つようになる。

●思ったこと
・見えにくい障害である聴覚障害を他の人に理解してもらう・気づいてもらうためには何が必要か(個人からでもいいし社会側からでもいい)。
⇨意図としては、そもそも障害を理解してもらう前に「障害がある」ことを理解してもらう段階があり、まずその段階に入ることが大事だと思う。そのためにどうすればいいと思う?
・ネット社会になり、誰もが情報を発信することができるようになってきている。すなわち、誰もが当事者としての困りごとを発信しやすくなっている。
それが世の中に浸透してきた時、次はどのような段階に入ると思うか?

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熊谷先生をすごいと思ったのが、前回の記事で発表した5名の発表内容を全部絡めて、基調講演を行っていることだ。
5名の発表内容はそれぞれテーマがバラバラにも関わらず、それらを全部絡める引き出しの多さや思考力が全面に出され、約90分の長時間にも関わらず、終始集中しすることができた。これも熊谷先生の凄さの1つなのであろう。

■最後に
これで2編に渡る聴覚障害×当事者研究は終わるが、このシンポジウムは来年も行われるようである。その時には、今回の内容より更にバージョンアップされていることを期待したい。
また、より多くの当事者がこのシンポジウムに足を運び、自分自身を知り、そして自身の生活をより前向きなものにしてほしいなとも思う。

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