【やが君2?次創作】或る日の明晰夢:水族館にて

登場人物
七海澪
遠見東高校の第四十代生徒会長だった。
山根由里華
大学1年生。七海澪の元同級生で、生徒会役員だった。本稿の視点人物。

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 午前9時47分。まだ朝と言うべき時刻ではあるが、ゴールデンウィークの到来に浮足立った太陽は既に高く、無邪気に光を振り撒いている。光は大きな駅の開放的な窓から飛び込んでは跳ね回り、よく手入れされた床や壁を白く四角く切り取っている。その輝きのスタート地点、改札を出てすぐのところで、私は彼女を待っていた。私がこれから過ごすであろう待ちに待ったひとときに思いを馳せていると、朗らかな電子音楽に迎えられ、眩い陽光をあちこち反射させながら、10両分の喧騒が階下のホームに運ばれてきた。

 1分後、押し寄せる人の波の中、ひときわ輝く存在を私はすぐに見出した。彼女もまたすぐ私を見つけると、周囲の人の流れを意に介さず、まっすぐ私のもとへ駆け寄ってきた。見慣れていたはずの彼女の笑顔が、今日は一層輝いて見える。彼女は軽く息を弾ませながら、軽やかに声をかけてきた。

「えーっと、こういうときはなんて言うんだっけ……そうそう、
『由里華、ごめん、待った?』」

「ふふ、じゃあ私はこう言えばいいのかな……
『ううん、澪。今来たところ』」

 所謂デートを意識した言葉を選んでくれたことに浮かれ、思わず頬が緩んでしまう。澪も照れたように笑う。澪は表情豊かな人ではあったが、ある時期から私にだけ、こんな風に照れる顔を見せてくれるようになった。それを好ましく思うのも束の間、今度はよく見慣れたすまなさそうな表情で澪が言葉を継いだ。

「ほんとのとこ、さ、……けっこう長いこと待たせちゃったんじゃない?」

 珍しく要領を得ない訊き方だった。色々な意味に取ることができたが、いずれにせよ私の答えは決まっている。

「……駅に着いたのは、2~3分前かな。何も気にすることないよ。
……澪が来てくれて、嬉しい」

「そっか……うん、よかった。じゃあ行こっか」


 駅舎から外へ出る。浮かれきった陽光を遮るものはもはや何もない。光に満ちた世界を、私は澪と並んで歩く。これまでいつもそうしてきたように、私は澪のほうへ視線を向けた。

 私は、隣を歩く澪の横顔を見るのが好きだった。背筋を伸ばし、まっすぐ前を向いて進み続ける澪の横顔はいつも輝いていた。しかし今、私が見ているのは澪の横顔ではなく、こちらをまっすぐ見つめる顔。私は不意に、澪と目が合った。

「ん、どしたの?由里華」

 声をかけられて我に返ると、私は自分の頬が緩みきっていることに気づいた。照れ隠しに両手の指で頬をぐりぐりとほぐしながら、ぎこちなく返事をする。

「いや、ね?澪、ちょっとだけ変わったなあ、って思って」

「ふふ……そう、ちょっとだけね」

 ある時期から、澪の顔が以前より少し頻繁にこちらを向くようになった。いつも天を目掛けて真っ直ぐ伸びていた背骨が、ほんの僅かにこちらへ傾くようになった。世界で私しか気がつかないような、些細な変化が今は好ましい。さらに私は、今日初めて訪れた澪の変化にも気がついた。私の顔を見る澪の視線が時折下を向くのだ。その視線の先の辺りをちらりと見ると、澪の右手が腿から僅かに離れて私の方へ伸び、指を程よく開いた状態で、所在なさげに漂っている。可愛い。

「ふふ」

 デートなのだから、手を繋いで歩く方がそれらしい。照れが残っているらしい澪の手を、私の方から迎えに行こうとする。しかし私の左手もまた、少し腿から浮いただけで、澪の手に届くことなく硬直してしまった。

「…………??」

 私自身の手の挙動を訝しんでから一瞬の後、頭の中を思考が駆け巡った。手を繋ぐって、今?何の前触れもなく?タイミング不自然じゃない?もっとこう、スマートに、自然に……自然にって何?何が正解なの?視線を斜め上に彷徨わせて思案していると、ふわふわ漂う手と手が、ちょんと触れた。

「「あっ」」

 互いの空回りが起こした衝突事故に、ふたり同時に間抜けな声が出た。澪と目が合ったり合わなかったりした。最早スマートがどうのと言っていられる場合ではなくなってしまった。私はこれ以上照れが強くなる前にと、不自然極まりない素早さで澪の手を握った。

「……いい?」

 澪に事後承諾を求める。

「うん……」

 この期に及んで「だめ」とは言われないだろう、というのは私も流石にわかっていたのだが、何か言葉を発しないと落ち着かなかったのだ。澪の手はしばらくされるがままになっていたが、やがて何かを確かめるように私の手を握り返した。あまりにも締まらないやり取りに、どちらからともなく笑いが零れた。

「「ふふ」」


 気づけば風景が移ろい、慣れ親しんだ奔放な陽光は、初めて目にする均整の取れた照明へと変わっていた。今日の目的地、水族館。

「澪は水族館ってよく来るの?」

「んー、あんまり?由里華は?」

「全然かなあ。最後に水族館行ったのもいつだったか……」

「いいね。非日常だ」

 一緒にいるのが日常だった私たちの、初めてのデート。私たちはそこに特別を求めた。こうしてその日を迎えてみると、やはり悪くない。友達のままでいられたらそれでよい、なんてもう考えられない。

(((澪、……デートに行きませんか?ただ遊びに行くのをデートって呼ぶだけとかそういうんじゃなくて、もっと、ちゃんとした、やつ……)))

 こうしてデートに来てはいるものの、まだ私は澪に「好き」と言えていなかった。私は高校1年のころからずっと、澪との距離を、どこまで近づいてよいのかを、慎重に測り続けていた。澪の私に対する接し方がほんの少し変わって、お互いにじっくりと距離を詰めて、デートに漕ぎつけて、もう告白したようなものではあるかもしれないが、その一線を踏み越えることが、私にはまだできていない。今日は内心そのタイミングを窺っていたりもする。

 その澪の様子を探るべく、水槽の前に立つ澪へ視線を送った瞬間、ばちっと目が合った。

「……!?」

 不意の出来事に、私の方が思わず目を逸らしてしまった。視界の端の方では、まだ澪の両目が私を捉えている。隣の水槽の前に移っても、奥のスペースへ行っても、その奥でも、澪はずっとこんな調子で、私は澪に視線を巡らすたびに思いっきり目を合わせることになった。

「あの……澪?」

 クラゲが漂う水槽の前、たまりかねた私は澪に向き直った。

「海の生きものたちのこと、ちゃんと見てる?こっちばっかり見てない?」

「んー、これデートじゃん?つまり由里華のことを見にきているわけで」

 澪がそんな風に即答するものだから、私は二の句を継げなくなる。

「ま、でも由里華の言うとおり、海の生きものもちゃんと見なきゃね。せっかく来たんだから」

 澪はそう言うと、円筒形の水槽に沿って歩き、私と水槽を挟んで反対側の位置で立ち止まった。

「これでよし!冴えてるでしょ」

 透明な水槽とクラゲを貫いて、澪の視線が私を射抜く。

「もう…………もう…………!」

 水槽の表面にうっすらと映る私の顔はピンクの照明に照らされ、熱されていた。

 2階に上がっても澪はこんな調子のままだった……と、思っていたけれど、

「はわ~~!」

 しばらく進んだところで見事カピバラに目を奪われていた。おい。

「かわいいぃ……」

 どこか釈然としない気持ちはあるものの、澪の視線から解放された私は少し落ち着きを取り戻した。改めて、左隣に立つ澪の横顔を見る。

「うん。可愛い」

 澪の横顔を見るのが好きだった。しかし、ある時期から、その澪の顔がこちらを向くことが多くなった。澪に見つめられるのには未だに慣れないけれど、もしかしたら私は、澪の横顔だけでは足りなくなってきているのかもしれない。澪の顔がこちらを向かないことに寂しさを覚える直前、澪がゆっくり、ふわりとした動作で、体ごと私の方に向き直った。私は思わず見とれて、ぼそりと呟く。

「澪…………」

 澪は両手を身体の後ろで組み、上体を少しこちらに傾けて、私の顔を斜め下から覗き込んで微笑を浮かべた。

「ん」

 私に言葉の続きを促すように、短く声を出す。その声が、表情が、仕草が物語っている。私の言いたい言葉を澪もわかっていて、それを受け入れる準備ができていて、その言葉を待っている、と。それが最後のひと押しだった。やさしく背中を押され、私はついに小さな一歩を踏み出す決心をした。

「……好きです。澪」

 私の言葉を聞いて、澪がふっと微笑む。安心したような、と言うよりどこか肩の荷が下りたような表情だった。数秒の後、澪がにかっと笑って告げる。

「あたしも、好きです。由里華」

 あまりにも当たり前のように言ってのける。

「後出しはズルくない?澪……」

 私の不平を聞いて、澪は真剣な表情になる。

「ズルくないよ」

「どうして?」

「由里華はさ、言葉にはしないだけで、あたしのこと好きってずっと伝え続けてくれてたでしょ?」

「それは……それは、そう」

「でしょ?こんな言い方もなんだけど、由里華はひゃくパーあたしのこと好きだからあたしが告ったらぜったいOKだって、こっちは確信させてもらってるの。そんな……安全圏?から由里華に好きだって言っても、それこそズルだよ」

 澪が私の目を真っ直ぐ見ながら続ける。

「あたしのこの気持ちは由里華ががんばって勝ち取ったものだから、由里華が言ってくれることに意味があるんだよ」

「澪……」

 私も澪を真っ直ぐ見つめ返す。見つめ合って数秒、不意に誰かの視線を感じた。人に見られると少し恥ずかしい状況だったことに気づき、私が周囲に視線を彷徨わせると、

「……!」

 カピバラと目が合った。他にも数匹の生き物たちが「構え」と言わんばかりに視線を送ってきていた。私も澪も何だか可笑しくなって、しばらくは生きものたちに集中することにした。


 2階の生きものたちをひとしきり眺めた後、2階奥から広場へ出ると、今一度陽光が私たちを出迎えた。

「まぶし……」

 強さを増した輝きに、私は目を眇めた。周囲に人の気配はない。目が慣れてくると、案内板が目についた。

「イベントの時間はまだ先だね…………澪?」

 私が振り返って見た澪の姿が、想定よりも体ひとつ分近くにあった。一瞬硬直した私の両肩を、澪の両手が包む。澪はいつになく真面目な表情をしている。澪はその体勢のまま私を建物側の壁へと追い詰め、私の背をやさしく壁へと押し付けた。

「由里華……」

 至近距離で名前を呼ばれ、私の心臓がどくんと一際大きな音を立てる。頭がぼうっとする。壁を背にしたことで、陽の光が真正面からぶつかってくる。顔が熱い。澪の顔が、これまでになく近くにあるその顔が、さらに私の方へじわじわと近づいてくる。顔が近い。近い。近

「……………………っ」

 スローモーションのようになっていた私の視界がいま、完全に静止している。私の唇に、澪の唇が触れているのだ。ゼロ距離にある澪の瞳との位置関係から、私は状況を把握した。ワンテンポ遅れて身体の反応がついてくる。陽光に曝された私の顔が、内側からも熱せられていく。これまで夢にすら見なかった瞬間。澪との……


「もう、……由里華?目ぇ開けてたでしょ」

 唇の感触が離れ、10センチほどの距離に離れた澪の顔から、照れ笑いと不平が零れてくる。

「だって、いきなりだったし……それを言うなら、澪だって」

「それは、えっと……あたしまで目ぇつぶったら狙いが定まんないじゃん」

「そう?…………そうかも?」

 正直どうするのが正しいのかわからなかったのだが、そう言われるとそうだという気がする。だが結局、澪がわざわざ不平を零した理由はそこではない。私にもわかる。こんな不意討ちの1回では物足りないのだ。澪も。私と同じように。

「じゃあ、澪。もう一回」

「うん……」

 私は目をつむった。真正面からの陽光が瞼の裏をうっすら赤く染める。今度は心の準備を万全に、澪を待ち構える。やがて瞼の裏の赤が暗く滲んできて、眼前に近づいてくるものの存在を伝える。皮膚にぼんやり伝わってくる熱と息づかいがそれに続く。

 澪より少しだけ背が低くて、肩幅が少し狭い。そんな私の身体はきっと、澪の両腕と壁に区切られたこの空間に綺麗に収まるために創られているのだ、そう思うほどの心地よさがあった。視覚以外を総動員して澪の存在を感じながら、待つ。やがて、さっき覚えたばかりの感触が、ふたたび私の唇を包む。

「……………………」

 さっきよりもじっくりと唇を重ね合わせる。こうして澪にすべて委ねることに、私は心地よさを覚える。私に触れる感触と熱が少し遠のき、視界が少し赤みがかった。少しずつ陽光に目を慣らしながら瞼を開き、澪の顔を見る。……きれい。

 こちらをまっすぐ見ている澪と、余韻を感じながら見つめ合い……きっかり5秒。私は澪の両肩に手を添えて、体の位置を入れ替え、逆に澪を壁にそっと押しつけた。

「じゃ、交代」

「えっ」

 澪が目を見開いた。……私も驚いた。自分の欲求がエスカレートしていく。澪にすべて委ねるのは心地いいけど、逆も味わってみたい。もっと欲しい。

 澪が壁を背にしたことで、私のほうへ傾いていた背骨がまた天へと伸び、目線が少し高くなる。私は踵を目一杯浮かせ、必要以上に背伸びをして、斜め上から覆いかぶさるように澪へ顔を近づけ、唇を重ねる。

「……………………っ」

 澪は目を見開いたままだった。視線と唇を重ねて十数秒、私は澪を束の間解放し、澪より少し高い目線を保ったまま、さっきの意趣返しをする。

「澪。目、開けてたでしょ」

「あ、…………うん」

「もう1回」

「…………っ、うん」

 澪は顔を赤らめ、息を吸って、吐いて、ゆっくり目をつむった。私も澪に倣って、息を吸い、吐く。踵を地面につけ、澪の頬に手を添え、今度は斜め下から澪へと顔を近づける。実際やってみると別に、私も目をつむったところで、狙いが定まらなくなるようなことはなさそうだ。しかしそれではもったいない。間近にある澪の顔を目に焼き付けながら、澪へと顔を近づける。

「…………………………………………」

 また十数秒の後、私は澪から顔を離し、続いて両手を離した。立ち位置はそのまま。澪が目を開ける。なんだか照れて直視できないようで、それでいて視線が瞳に吸い寄せられる。お互いに顔は斜め下を向けながら、交わす言葉もなく曖昧に見つめ合った。陽射しは相変わらず遠慮なく降り注ぎ、私たちの顔を、全身を熱し続ける。私たちが無言のまま屋内へと戻るまで、顔の紅潮が引くことはなかった。


 その後私たちは1階に戻り、カフェの席に着いた。2階のショーの予定はどれもまだしばらく後だ。「なんかめっちゃ喉乾いちゃった」と言ってコーラを飲みほした澪の正面で、私はゆっくりとコーヒーを飲む。今日一日を通して初めて、チルアウトできる時間が訪れたように思う。グラスの氷をカラカラと鳴らしてから、澪が口を開いた。

「新生活はどう?由里華」

「うん……まだよくわかんないかな。けど楽しいよ」

「そう、か。なによりだねえ」

 澪が心底満足したような、安堵したような微笑みを見せる。もしかしたら、彼女が妹に向けていた表情は、こんなふうだったのかもしれない。何となくそう思った。

「澪はどう?まあ澪なら悪いようにはならないだろうけどさ、私の見てないところで変な虫に集られてないといいな……」

「あはは、『変な虫』って。ま、由里華の心配には及ばぬよ。なんてったって、これからは『あたし彼女いるんで』って言えばイチコロだからね」

「うん…………ありがと」

「それに悪い虫がつかないか心配なのは『とーこ』の方だよ。あの子ただでさえ世界一かわいいのに、もう来年には中学生だからかな、なんか色気みたいなのがさ……あぁ~、今すぐぎゅってしたい…………ハッ!?」

 澪が大げさにこちらへ向き直り、顔を青ざめさせる。

「ち、ちちち違うんです由里華さん!これはっ!」

 まるで浮気がばれたみたいに狼狽える澪がなんだか可笑しくて、私は笑おうとした。笑おうとして、気づいた。私の顔が強張っていることに。

「断じて!デート中にほかの女のこと考えて鼻の下を伸ばしているわけでは断じてぇ!」

 つくづく今日は、感情が遅れてやって来る。胸のあたりがもやもやする。私はとーこちゃんに嫉妬しているのだ。私は戸惑いとともにそれを認識した。

「信じてくださいよお……」

 澪は長い間、最愛の妹・とーこちゃんに良いカッコをするために努力してきた。その妹への愛情の深さを、学校では私だけが知っていた。妹について語る澪を見るのはかつての私にとって何よりの幸せだった。そんなとーこちゃんの話を聴いて、こんな気持ちになるなんて。私は澪に受け容れられて、こんなにもわがままになっていたことに自分でも驚いた。しかしそれだけではない。

「由里華あ…………」

 私の変化に澪が私よりも早く気づいていて、先回りで過剰に反応してくれるのが嬉しかった。嬉しくて、ほころびそうになる顔の筋肉を、私は強いて引きつらせた状態に保ったまま、言葉を返した。

「ふーん、そうだよね。澪はとーこちゃんが誰より何より大切なんだもんね」

「だっ……!?た、大切は大切だけど、違うんですよお!」

「帰りたくなったんでしょ。今すぐ実家に帰って、とーこちゃんといちゃいちゃしたいんでしょ」

「めっそうもない!!」

「ふーん?じゃあ……」

 私は表情筋の力を緩めて、もう自分ではどうなっているかわからない顔を澪に近づけた。

「…………今日は、帰らないで」


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