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【場面緘黙】園外では友人と話せていたかも?な幼稚園時代を振り返る


本記事は、かつてNjimablogにて掲載していたものを、一部修正したうえでnoteに投稿したものとなります。

幼稚園児だったのは25年以上前のこと。そこまで多くは覚えていないのですが、印象に残っていることを主に書いていきます。

大泣きした入園式

なんとなく今でも当時の光景を覚えています。僕は年中組からの入園で、式の時点では誕生日が来ておらず3歳でした。

その式では入園する児童と親が離れて座る形式となっており、知らない人が周りにたくさんいたせいなのか、あるいは慣れない場所だったからなのかは分かりませんが、始まる前から大泣きしてしまったのです。

結局、先生にあやしてもらったものの全く泣き止まず、保護者席で両親と一緒に式に参加しました。

この頃から不安を強く感じやすいタイプの人間だったことがうかがえます。

幼稚園での生活

両親や先生は入園式の様子を見て不安だったと思いますが、振り返ってみると大きな問題なく幼稚園での集団生活を送ることができました。

実際、毎日の決まった習慣、たとえば全員での挨拶やお弁当を食べる前のお祈りの言葉(カトリック系の幼稚園でした)なんかは声を出して行えていました。

大きな問題はありませんでしたが、小さな問題はありました。主なコミュニケーション手段が口ではなく、首だったのです。

どういうことかというと、先生や同じクラスの子に何か話しかけられても、首を縦に振ったり横に振ったりで答えることがほとんどだったのです。そのため、YES/NOで答えられないような時は固まってしまっていました。

そんな僕を見て先生はどう思ったのかは分かりません。単純に「大人しい子」や「恥ずかしがり屋な子」だと思っていただけかもしれません。25年以上前のことです。場面緘黙の知名度も決して高くはなかったでしょうしね。

仮に僕の親に幼稚園での様子を伝えていたとしても、家だと決して話せない子ではなかったため、両親も先生も問題視しなかったんじゃないかなと思います。

さて、僕にとっての幼稚園2年目、年長組になると「うん」や「ううん」という言葉で意思表示できるようになっていました。しかし、これもまたYES/NOで答えられる質問にしか対応できません。周囲の人々にはきっと大変な苦労を強いてしまっていたことでしょう。

年長組の時には夏にお泊り会という行事がありました。これには両親も大変心配したそうなのですが、僕自身は当時の心境は思い出せません。

覚えているのは、クラスの中で最も早く寝たらしいということ、そして一番最後に起きた(寝坊)ということ、起床後クラス全員で近所の公園に散歩に行くと決まっており「○○くんも行く?どうする?」と先生に聞かれて首を縦に振ったということです。

年長組での行事といえば、冬には「聖劇」を行いました。僕は宿屋の主人Bという役だったのですが、必要とされる決められた言葉は問題なく発することができたので、難なくこの劇も乗り切りました。

他にも覚えていることはありますが、園内の生活に関しては長くなりそうなのでこの辺にしておきます。

園外では割と喋れていた気がする

これは特に年長組になってからなのですが、園内と異なり、園の門を出ると同じ幼稚園の子とも割と話せていたような気がします。

通っていた幼稚園は住んでいる地域によってバス通学組と徒歩通学組に分かれており、僕は後者でした。ほとんどがバス通学で徒歩通学の子は少なかったため、同じ徒歩通学の子とは比較的仲良くなっていました。

これは周りにいる人数の違いが関わっていそうな気がします。園内はたくさんの子や先生がいますが、園外はそうではありません。そのために緊張感や不安感が小さいものになっていたのかもしれません。

ただ、園外ではそこまで話せないわけではなかったが故に、場面緘黙が見過ごされてしまったのではないかという思いも今ではあります。

習い事の音楽教室が大嫌いだった

最後に、習い事として通っていた音楽教室の話をします。この音楽教室に関する記憶が幼児期で最も嫌な記憶になっています。

そもそも、その音楽教室とはどんなものなのかというと、同年齢の子ども十数人からなるクラス(親も教室内にいる)において、みんなで歌ったり踊ったりしましょうというものです。

僕はこの音楽教室でも入園式の時と同じく母親のもとをなかなか離れられませんでした。それだけではありません。皆が歌ったり踊ったりしているなか、僕だけできないということが毎回続きました。体が固まって動かず、歌も踊りもできなかったのです。

音楽教室のクラスメイトは、この教室の時間にだけ集まるという点で幼稚園のそれとは全く別物でした。そのために不安感や緊張感がすごかったのかもしれません。しかし、そんなことは当時の僕自身も分かっていませんでしたし、親はなおさらです。

親には「恥ずかしい」という気持ちがあったのでしょう。毎回帰りの車の中でひどく怒られたのを覚えています。「他の子はみんなできているのになんでできないの!」という言葉は何回も聞きました。「そんなのうちの子じゃない」なんてことも言われていましたね。

また、家に入れてもらえないことも多々ありました。そういう時はチャイムを鳴らして何度も謝り、次回はちゃんと歌ったり踊ったりするとを訴えることでドアを開けてもらってました。

しかし、そう約束してもいざ教室に行くと全くできませんでした。

そうすると当然また怒られ、家に入ろうとしても追い出されました。当時はアパートの2階に住んでいたのですが、いっそ飛び降りて怪我をすれば心配して開けてくれるんじゃないかとか思っていました。

結局そんな勇気はなく、わざと咳こむことによる「風邪をひきそうアピール」をして入れてもらっていたんですけれどね。

このように今でも鮮明に覚えているんですから、当時の僕が受けたショックは大きかったのでしょう。

おわりに

今回は幼稚園児時代について振り返ってみましたが、当時の僕に「なぜ他の子のように話せないのか」「なぜ幼稚園ではできることが音楽教室だとできないのか」ということは理解不能でした。

それどころか「なぜできないのか」と考えることさえできませんでした。

そういった本人にも分からないという点が、(特定の社会的状況以外では話せるという点に加えて)親をはじめとする周囲の大人の理解を難しくさせている要因なのかもしれません。

さて、次回は小学校入学後の話を投稿する予定です。よかったらそちらもご覧ください。

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