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W杯と自分

FIFAW杯カタール大会2022は、PK戦の末にフランスを破ったアルゼンチンの劇的な優勝で幕を閉じた。
日本は前回準優勝のクロアチアにPK戦の末、敗退。
しかし今大会は激闘に次ぐ激闘で、スペイン・ドイツが同居し、死のグループとも比喩されたグループステージを首位通過。
世界中を驚かせる番狂わせを演じて魅せた日本だったが、クロアチアの壁は高く、至上命題であったベスト8進出には残念ながらあと一歩及ばなかった。

この結果を受けて、様々な捉え方をしたサッカーファンがいたと思う。
「もっとやれたはずだ」と思う人もいれば、「十分頑張った」と選手の戦いぶりを讃える人もいるかもしれない。
内容が良かったのかと言えば安易に首を縦には振れないし、かと言って森保ジャパンが失敗だったかと問われても同様に頷くことはできない。
とりわけ森保監督が日本代表を指揮したこの4年間で何度も更迭問題が勃発し、サッカーファンの間で「歴代屈指の無能」と中傷されてきただけあって、この敗戦でも多くの見解が分かれるのは致し方ないと思う。
もちろん、森保ジャパンに否定的な人たちが言う戦術や育成が大事なのも分かる、この4年間の森保ジャパンの戦いぶりに不満を抱く人の気持ちも、クロアチア戦はもっとやれたのではないかと思う人の気持ちも、十分に理解することができる。

だけど、そういった討論は一旦置いておいて、まずはカタールで戦い、敗れた日本代表を讃えて、賞賛するべきだと個人的に思う。
カタールでの死闘は本当に美しく、そして世界中の人々を勇気付ける戦いぶりだったのは紛れもない事実なのだから。

世界中のサッカー少年の夢であり、憧れであるW杯。
かつては自分もW杯を目指し、サッカー明け暮れたサッカー少年の一人だった。
今日はカタールW杯を観て感じたことを、2002年から20年に渡る今日までの自分の心境を、併せて書き連ねたいと思う。

2002年日韓大会

自分がサッカーを始めたのは小学2年生の時。
当初は遊びの延長線上で真剣にしていたわけでもなく、ただただ趣味程度でボールを蹴っていただけだった。
だが翌年日本と韓国で開催された日韓W杯を見て、躍動する日本代表のプレーに強烈な刺激を受けて憧れを抱くと、以降本気で日本代表を目指すようになった。

「夢は日本代表でW杯に出ることです」

事あるごとに将来の夢をそう語っていた当時は、小学生ながらも将来W杯の舞台で活躍する自分の姿を明確に想像し、イメージできていたと思う。
その夢を親に語ると、「ならもっとサッカーに打ち込まないといけない」と諭され、それまで通っていた地元の趣味思考の少年団チームから、隣町の本格的なクラブチームへと移籍。
練習がない日も友達とは遊ばず、独り近所の公園で毎日のようにボールを蹴っては、いつか訪れるW杯の舞台で活躍する自分の姿を、明確に鮮明に描き続けて努力を重ねる日々を過ごしていた。
この時は「W杯出場」という夢が叶うことを、信じてやまなかった。本気で叶うと思ってたからこそ、夢に向かって努力をすることができていたのだ。
ただの田舎の小学生だった自分に壮大な夢を抱かせるほど、W杯の存在は大きかった。
あの時テレビ越しに見た日本代表の面々は、どのアニメの主人公よりもカッコよく、そして美しかった佇まいは今でも自分の記憶の中に深く刻み込まれている。

2006年ドイツ大会


中学1年生の時、ドイツW杯が開催された。
当時は身体も小さく、所属していたクラブチームの4軍の控え選手だったが、それでもまだW杯への憧れと野望は燃え尽きてはいなかった。
その頃の自分は何かとませ始める中学生だとは思えないほど世間知らずで、よく言えば純粋で、悪く言えば夢みがちなアホだったのだ。
そのことをクラブチームの仲間に話すと、「お前、馬鹿じゃないの?」と言われて笑われた。
周りから見れば自分がW杯に出ることは能力的に不可能に近くて、だけど可哀想なことに肝心の本人だけはそのことに気付いていなくて、周囲からすれば自分はいわゆる“イタイやつ”だったのだろう。
だけど、どれだけ馬鹿にされて笑われても、この時はまだ自分の中でこの夢を鮮明に思い描くことができていた。
だから笑うやつは放っておき、「いつか見てろよ」と内心そう思いながらサッカーに打ち込み続けるだけだった。

でもその割にドイツで繰り広げられるW杯はどこか遠い世界の出来事に思っていて、当時日本があっさりとグループリーグ敗退をしても「厳しい世界だなぁ」としか感じていなかった。
自分がその舞台に立つのはもっともっと先の話。
そんな漠然とした考えが、鮮明に描けていたはずの夢をほんの少しだけ曇らせていた。
今振り返れば、もうその時点でW杯出場の夢は叶わないものだったのかもしれない。

2010年南アフリカ大会


更に4年が経過し、南アフリカW杯が開催された時。
自分は県内の弱小サッカー部に所属する高校2年生になっていた。
夢を諦めたわけではなかったが、高校生の年代は自分の社会的な立ち位置というモノをなんとなく察し始める時期だ。
自分も例に漏れず、「おそらく自分はW杯に出る事はできないのだろう」と、そんなことを思い始めていた。
自分の限界を薄々感じ始めると、あれほどまでに「必ず出る」と決めていたW杯出場の夢がいつしか「出たい」になって、そして気が付けば「出れたらいいな」程度の朧気な夢へと姿を変えていく。
でもそれは仕方のないことなのかもしれない。
中学高校で目立った活躍ができなかった自分がW杯になんか出れるはずがないことくらい、さすがにアホで夢みがちな自分でもそれくらいは理解できたのだから。
きっとこうして人は幼少期の夢を諦め、妥協していくのだろうな、と。当時はそんな事を考え始めていたりしたくらいだ。

そんな高校時代、同級生で仲の良かった女の子がいた。
仲は良かったものの恋人の関係ではなく、その子に対して明確な恋愛感情を抱いていたかと訊かれればハッキリと答える事はできない。だけど高校生だった自分はその女の子の存在を特別な枠に置いていたことだけは確かだった。

「いつもいつも『ダメだった』って言ってるけど、そんなんで本当に大丈夫なの?」

W杯の開幕直前のある日の週末、試合の日に毎回「調子はどうだった?」とメールで尋ねられ、その度に「ダメだった」、「今日は調子が悪かった」と言い訳じみた返事をしていた自分は、とうとうそんなことを言われてしまった。
その子には「W杯に出る」「プロになる」とかカッコイイことを言ってるくせに、イマイチパッとしない自分はひどく中途半端な存在に映っていたのだろう。
肺の奥を抉られるような、ぐうの音も出ない正論だったが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。むしろハッと我に返るような、そんな感覚を覚えていた。
それもそうだ。その子はその子で自分と同じように打ち込んでいるモノがあって、そしてその界隈ではかなり有名な存在で、自分と違って大きな結果も出しているエリートだったのだから。
自身はやりたいことでしっかりと努力をして結果を出し、また自分のサッカーを応援してくれていた彼女だったからこそ、厳しい言葉も自分は真摯に受け取ることができたのだろう。
だけど、その子が南アフリカ大会のデンマーク戦に日本が勝った直後、真夜中に電話かメールでこんなことも言ってくれた。

「君はいつか本当にW杯に出るかもね。そんな気がする」

どういった脈絡でそう言われたのかは、もう覚えてはいない。
だけどこの時の言葉に自分は凄く勇気をもらい、そしていつの間にか遠い夢になりつつあった「W杯出場」の夢が、ぐっと近付いたような気がしたことだけはしっかりと覚えている。
デンマーク戦を見終わった日の朝、通学中に未だかつてないほどに真剣に今後のことを考えた。

どうすれば自分はW杯に出ることができるのだろう。
W杯に出るために、今後どうしていけばいいのだろうか。

4年後のブラジル大会は20歳。だけど現状で弱小私立高校のパッとしない選手の自分がたった4年で日本代表のレベルに到達するのW杯はあまりに非現実的すぎる。
だからその更に4年後、24歳の時にロシアで開催されるW杯に照準を合わせて、逆算するようになった。
高校生の時、卒業後にバングラデシュに行ってプロになろうと考えていた。
当時のバングラデシュのプロリーグは世界最弱と言われるリーグで、そこなら自分でも簡単にプロになれると思い込んでいたからだ。
だけどW杯に行くのならもっと目標を高く持ち、レベルの高い環境でやらなければ成長できない。
未だかつてないほど真剣にW杯に出たいと願ったこの時、今更ながら自分は今後の道筋を考え直し、ヨーロッパに行く将来を思い描き始めたのだ。

その女の子はサッカー素人だし、知識も乏しく、きっとあの時の言葉も気休めや適当に口にしただけのセリフだったのだと思う。
だけど、自分にとっては物凄く効力を持つ言葉で、いつの間にか諦めていた夢をもう一度信じさせてくれる言葉だったのだ。
ある意味、この時が自分の人生の転機だったのかもしれない。
南アフリカ大会以降、明らかにサッカーへの意識は変わっていったのだから。

「負けろ」と願った4年前のベルギー戦

それから8年の月日が流れ、ロシアW杯を迎えた時。
自分は選手ではなく、当時福岡で務めていた広告代理店の先輩や同僚と博多駅の映画館でおこなわれたパブリックビューイングでベルギーとの試合を観戦していた。
高校卒業から2年後の20歳の時、「ロシアW杯出場」を目標にドイツに単身渡航し、8部のクラブと「勝利給30ユーロ」の契約でキャリアをスタートさせた。
だがドイツ8部で3チーム、オーストラリア4部と6部、ニュージーランド2部と、3か国計6チームでプレーをしたものの、結局自分は何者にもなれなかった。
ひたむきにW杯出場を目指していた海外生活の中で、イングランドプレミアリーグでプレーしていた選手や、オーストラリアやニュージーランドの年代別代表、ポルトガル2部やイングランド3部でやってた選手にアフリカの現役A代表などといった、俗に言う「あと一歩違っていればトップの世界に行けていた選手」たちと出会ってプレーし、嫌というほど痛感させられたのだ。
自分はロシアW杯に出れる選手のレベルでは到底ないのだと。
上には上が、それも果てしないほど遠い、雲の上のような存在が世界中には身近にゴロゴロと転がっていて、だけどそういった人たちよりも更に高いレベルの人間がテレビの中にはいて、きっと想像もつかないハイレベルな世界でしのぎを削りあっているのだろう。
全く陽の当たらない世界でしかプレーできなかった自分は、その世界にどれだけ背伸びをしても、手を掠らせることすらままならなかったのだ。

現実を知ってしまった瞬間から熱は一気に引き始め、ニュージーランドから帰ってきた後はすっかりサッカーから離れて、一般企業で働く生活に居心地の良さを感じるようになってしまっていた。
だけど実際にロシアW杯が開幕し、日本がコロンビアに勝ち、セネガルに引き分け、そしてポーランドに敗れながらも決勝トーナメント進出を決めると、嫌な胸騒ぎが胸の内を掻き乱し始める。
そして決勝トーナメントでベルギー相手に2点先取したとき、咄嗟に「負けろ」と願った。
憧れていたはずのロシアW杯の舞台で、史上初のベスト8進出に王手をかけた日本代表を見て、惨めな嫉妬心が芽生えたのだ。

自分もここに立ちたかったはずなのに。
どうしてサッカーもせずにこんなところで試合を見ているのだろう。

自分みたいな底辺サッカー選手がそんなことを感じるのが、どれだけ烏滸がましいかも分かっている。
だけど、行き場のない後悔と自分への不甲斐なさから、本気でそんな感情が生まれてきて、素直に応援することができなくなったのだ。
そして日本代表はベルギーに2点差をひっくり返され、ロシアの地で敗れた。
その時になって初めて、ずっと憧れていたロシアW杯に出ることを簡単に諦めていた自分が許せなかったことに気が付いた。

ロシアW杯出場は叶わなかった。
そして今後自分がどれだけの努力を積み重ねたところで、もうW杯に出ることは叶わないのだろう。
それでももう一度真剣にサッカーと向き合いたい。
かつて日韓W杯を見て壮大な夢を描いた幼少期のようにそう思えるほど、自分の瞳にはロシアの地で躍動した日本代表はカッコよく、嫉妬するほどに輝いていた。
勝手に嫉妬して勝手に勇気をもらったのだの、なんか都合良いことばっか言ってんなと思われるかもしれない。
だけど、あのベルギーとの死闘は夢を叶えれなかった自分にもう一度勇気をくれる最高の試合だったのだ。

そして4年後

ロシアW杯から4年が経った2022年現在、自分はポーランド、ハンガリー、スロバキアでの挑戦を経て、左膝と両足股関節の大怪我を負い、手術を受けるために入院した病院からカタールW杯を見守っていた。
さすがに前回大会に抱いたのような嫉妬心はもう芽生えてこなかった。
それはきっと自分なりにこの4年間でやれる事は全てやってきたと納得できている節があったからだ。
この4年間で後悔や反省はあるけれど、未練はなかった。結果的に大怪我を負ってしまったが、それでも4年前に比べたらちゃんと自分はサッカーに向き合うことができていたと、我ながら感じることができていたのだから。
そう思うことができると、不思議なことに自分は純粋な気持ちで日本代表を応援し、サッカーという偉大なスポーツに出会ってから初めて、本当の意味でW杯を心底楽しむことができた。

残念ながら日本代表はまたしてもベスト8進出の夢を果たせなかった。
だけど負けたクロアチア戦を見た後、胸中では残念な気持ち半分、「自分もまだまだ頑張らなきゃ」と思う前向きな気持ち半分が綺麗に二等分にされていて、そんな心中はとても穏やかで、そして清々しいまでに気持ちの良い余韻が優しくさざなみ立っていた。
きっと、これがW杯なのだ。
4年の月日を費やして本戦に辿り着き、それでも勝者になれるのは一か国だけで、だけど精一杯の努力と母国の誇りを胸に戦う各国の選ばれし選手たちの姿は美しく、観る者の心を激しく震わせる。
熱いプレーに一喜一憂し、世界中のサッカーファンに勇気と元気を与えてくれる、それがW杯という4年に一度の大会が持つ魔法の力なのだ。
だからこそ冒頭でも述べたように、まずはカタールW杯のために血の滲むような努力を重ね、日本のために全力で戦った26人の選手とスタッフたちに敬意と感謝を示すべきだと思う。
本当に本当に、お疲れ様でした。
カタールで繰り広げた激闘の4試合を見て、きっと自分のように勇気付けられた日本人は数え切れないほどの数いるはずなのだから。

くだらない自分語りになってしまったが、4年ごとに開催されるW杯を観るたびに、自分は何かに気が付いては忘れていたことを思い出し、何かを学び、そしてまた新たに前向きに頑張る勇気を貰ってきた。
世間ではW杯を2年おきの開催に変更する案も出ているが、自分は4年が丁度良いスパンだと思っている。
4年周期は、人の心境が移り変わりゆくのに丁度良い時間なのだ。
W杯を観ながら感じた事を、4年毎に振り返っては思い返すのも悪くないW杯の楽しみ方ではないのだろうか。

次のW杯は2026年。
自分はその時33歳。その時自分が何をしているのかはまだ想像がつかない。
世界のどこかで選手としてサッカーをやってるかもしれないし、もうやめて日本でひっそりと暮らしているかもしれない。
4年後の自分は分からないけれど、それでもまた4年後のW杯を心置きなく純粋に楽しめるよう、これからの時間を一生懸命自分なりに生きたいと思う。


とてもとても、楽しくて勇気がもらえる大会でした。
日本代表の皆さん、本当に素晴らしい4試合をありがとうございました。


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