デリカシー

デリカシーがないということは配慮、気配りができないという意味だ。
きっとみんな同じようなことを感じているんだろう。
「あの人デリカシーがないな・・・」と言ったその人は、別の誰かに「デリカシーがない人」というレッテルを貼られていたり・・・

結局、他人の方に目を向け過ぎてしまうとそんな途方も無い謎の不満点や問題点にばかり着目してしまい、今この瞬間の尊き時間に気づけずにその一日を終わらせてしまう。

普通に生きているとそんな他人の言動が気になってしまい、フラストレーションを溜め込んではストレス発散に浪費して、金も時間も泡のように消えていくという日常が誕生してしまうのかもしれない。

そんな日常からの脱却はどのようにしていくのか?
結構難しい議題になりそうだが、でもきっと答えは簡単で、自分自身に注目しては、他人に気を配り、尊敬の念を持ち接するだけ。

他人に対する多少の配慮不足が大抵の問題を招いている、そんな気がしている。

「この人尊敬できないな」とか「どうしても好きになれない」と一度思ってしまうと、その人から得られる情報を自動的に遮断してしまう。

そのままでは正直言って何も解決はできない。
何周も何周も回っては、その人の嫌なところも良いところも知り、人物像を完成させていく。

その面倒臭い活動が重要そう。

そしてコミュニケーションの大切さがここで露呈してくる。

全てのことは何度も繰り返されていく。

それを面倒だと思ってコミュニケーションを疎かにしていると、相手のことを見る目が養われなくなる。

俯瞰して相手を見るのだが、どこかズレた評価をしてしまったりする。

そのズレを修正するためには、多くの人とコミュニケーションを取る。

AさんのことをBさんにも聞いてみる。

するとAさんのことについて、Bさんとだいたい同じような見方をしていたということに気づくことができるので、そのAさん情報は多少信ぴょう性が増す。というか自分の感覚が他の人と似た感覚だと気づくことができる。

結局はただの感覚に過ぎないのかもしれない。

そしていちいちそんなことやってられないとか思うかもしれない。

ただ、デリカシーがある配慮ができる人とか、そういう人のことはみんな好きだ。

だからその無駄になるかもしれない努力というものをしていく。

人生のあれこれなんて、所詮は無駄なものの集合体。

無駄なことに時間を注げないのはちょっと勿体無い。

人生をつまらなくするようなものなのだから。

ある意味、現在からの離脱。

最適化とか、無駄なものを省くとか、効率的なものばかり求めてしまってはいけない。

そういうところに、今この瞬間を生きるために必要なあらゆるものがあるのだから。

という事も、実はデリカシーのない事なのかもしれない。

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