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『THE BATMAN』感想

 実に10年ぶりとなるバットマン単独作。『猿の惑星 創世記』のマッド・リーブス監督、主演ロバート・パティンソンによって5年の製作期間をもって作られた本作。執念的にフィルム・ノワールでいてダーク。数あるバットマン映画の中でも特出して”バットマン”の映画。そして、”ブルース・ウェイン”の瞳の中にたたう感情にフォーカスした新たなアメコミ映画の金字塔となった。

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 物語はブルース・ウェインがゴッサムシティでバットマンとして活動して2年目に突入したところから始まる。犯罪が蔓延するゴッサムで怪奇な事件が起きる。猟奇的な殺害をされた市長。そこには犯人からの挑発的なクイズ。そして、バットマンに宛てられた手紙。それから次々にリドラーと名乗る男が街の権力者を殺していき、その度にバットマンにメッセージを残して、バットマンは協力関係にある刑事ゴートンとそれを追う。

 本作のバットマンはヒーローアクションというより、探偵とノワールとしての性質が強い。『セブン』や『ゾディアック』のような重厚でリアルなダークさで、コミカルさはアクセント程度に品のあるガジェットが登場するくらいで派手さとは無縁で無骨。クリストファー・ノーランの『ダークナイト』もリアル志向ではあったが、さらに、『THE BATMAN』はリアルであることに固執している。

 ロバート演じるブルースは、これまでのブルースやDC、マーベルといったアメコミ、あらゆるヒーロー物の主人公と比べても尖って異質なほどに、身に起こった悲劇に押しつぶされて復讐に囚われて陰鬱としている。事前のスチルやトレイラーでも唖然とするほどに血相が悪かったが、初めて素顔がスクリーンに映し出されるとあまりにも死に過ぎた形相に退廃的な美を見出して息を飲んだ。

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 他のバットマンでのブルースのプライマリーイメージの豪奢さは微塵も感じなく、父譲りの富や名声はあるも、それにはたして何の意味があると口にはしないが佇まいで物語る痛ましさはロバートのパーソナルイメージからもかけ離れている。だが、『トワイライト』からクリストファー・ノーランの『TENET』までの間で出演していたインディーズ映画で培った世捨て人的な役にチャレンジしていった集大成とも言えるほどに芸術的なまでに病んでいる演技から目が離せない。

 街に跋扈する犯罪に父を殺され、復讐に身を任す恐怖の象徴たるバットスーツはメットがつぎはぎで、装甲や装飾も機能だけを求め、あらゆるものから取ってつけた装備となっていて、バットマンというアイコンに対する執着を感じさせない。

 バットモービルもリアに積んでるブースターがド派手なだけで、かつてのバットモービルような蝙蝠のフォルムを模したような華美さはない。カーチェイスは流石にダイナミックではあるが、大型トラックが縦に吹き飛ぶといったような無茶はない。が、爆炎からバットモービルが飛び出すカットは合成ではないだけあった豪快な絵になっている。荒々しく魔改造したマッスルカーが犯罪者を追い回す姿は、犯罪者に同情したくなるくらいに怖い。

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 そんなバットマンが追うリドラーが巻き起こす事件は、猟奇殺人物として付き物の嗜虐性がない。快楽的に見えて、執拗に計画的で、リドラーもまた凶悪で妄執とした怨念に囚われている。事件に根付く闇はリドラーの怨念だけではなく、それは下手をしたらリドラーより陰険で現実にも根付く闇で、その闇から生まれたリドラーという恐怖をそれがさらにリアルにしている。

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 リドラーの武闘派では無いので、事件に関わるマフィアとバットマンとの格闘が多い。メインのヴィランがいてバットマンとファイトをする。分かりやすいヒーローものらしい外連味ある様式は無い。そして、バットマンの繰り出す攻撃は、相手を黙らせる為だけの暴力だ。ラストのファイトシーンすらメインヴィランであるリドラーを倒すような爽快な様式美は無い。何故なら『THE BATMAN』が叩きのめす悪とは、人に棲みつく悪そのもので、現代は軽率で愚昧な悪が世の中には蔓延っている。そう考えると最後にバットマンが対峙した悪の姿に嫌でも得心がいってしまう世の中に今の人類は直面している。

 物語を厳かに飾る音楽はマイケル・ジアッキーノだが、ジアッキーノと言えば、『スパイダーマン ホームシリーズ』、『ドクター・ストレンジ』etcで気分を煽情する抑揚ある旋律で映画を盛り上げるイメージがある人も多いと思うが、『THE BATMAN』では弾みがなく鬱々としている。基本はバットマンとリドラーのテーマがあって、似たような拍子の少ない旋律でそのアレンジで構成されている。同じ旋律の音楽を流し、時により静謐に、時に激しくさせる事で3時間と言う長丁場を気だるくしない緊張感を演出している。テーマを繰り返す事で、肝心なシーンで曲に込められた情感もピークに達した際の演出力には鳥肌が立つ。

 画面も当然、バットマンシリーズ一と言って良いほどに暗い。「暗くて見えないなんて言わせないぞ」と圧力を感じるほどに暗い。照明でもなければ、赤や青といった明るい色は一切と言って良いほど使われてない。ネオンや爆炎や黄昏でなければ明るさは世界には存在しないというほどに暗い。圧倒的な暗さで煌々とする光。その中心にあるバットマンやバットモービルのシルエットは網膜に強烈に焼き付くほどに美しい。

 ここまで紹介した『THE BATMAN』を構成するダークさは、圧倒的な闇で覆いつくされても決して消えることのない至純の光を際立たせる為にあるという事が終盤になるに連れて明らかになっていく。撮影もラストシーンに向かって明るくなっていって、そこに佇むバットマン/ブルース・ウェインの姿は信念に基づいて人を助ける紛れもないヒーローそのものである。

 犯罪と暴力と裏切りに塗りつぶされた街ゴッサム、恩讐に囚われた連続殺人鬼リドラー……悲痛な過去に苛むブルース。それらを見つめるブルースの青い瞳の中には、子供の時に憧れた街を救おうと活動していた父の姿がある。徐々に少しづつその優しさが溢れ出す場面がある。しかし、「ブルースは何故、バットマンとなったのか?」その真相に物語は迫っていき、自分がリドラーとコインと表と裏になっている事実に直面して、その真心が揺らぐ場面もある。が、最後には悲しみを理解し、痛み苦しむ人に手を差し伸べられる思慮深い今までにいなかったバットマンがそこにいる。

 ヴィランがいてそれをバットマンが倒すというような単純で痛快な様式美や、豪快なエフェクトが炸裂するエクスタシーな色気も無い。アメコミ映画戦国時代の言える世の中、アメコミ映画と言えば他作品とのクロスオーバーがもはや当たり前だが、『THE BATMAN』はそれも無く完全独立した世界観。実践的である作品とも言えるが、その実践は見事、成功している。終盤のシーンで暗闇の中で煌々と光る強固な希望がある。それが”なぜヒーロー映画が必要なのか?”の答えともなっている。バットマンと言えば、現実とより肉薄した現代風刺が付き物であり、『THE BATMAN』は現代を今まさに病的なまでに蝕んでいる一部の権力者が特権を振舞って世界を混沌に陥れるような邪悪さや、単純で先鋭的かつ自らの正当性を迂闊に満たすような露悪な陰謀論への批判を盛り込んでいる。リドラーがバットマン/ブルース・ウェインを極限まで追い詰めた時、彼の純然たるヒーローとしての生きざまが人々を苛む暗澹たる暗闇を振り払い、クリフハンガーが無数にちりばめられたり、ヴィランを倒して終わりのようなヒーロー映画の常套を壊し、ヒーロー映画の新しいマスターピースとして君臨した。

 3時間と長尺ではあるが、それがいい。1カットごとに品のいいウィスキーを口に含んだような陶酔感が得られるシックな画。つい多分に語りたくなるようなキャストの造形力の高いキャラクター。ニルヴァーナの『Something The Way』に追従し心の芯から厳かに感情を揺るがす音楽。陰惨で狡猾なリドラーが仕掛ける謎を追ってバットマン/ブルース・ウェインの人間性に落ちていく卓越された脚本。それが支配するほの暗い迷路に長時間、心を委ねる体験は極上の一言。『THE BATMAN』は画と音に没入できればできるほどに贅沢な気分を味わえる映画なので、Dolby Cinemaでの鑑賞を推奨したい。


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