taro

taroは、うず高く積まれた羊皮紙、またそれを包む別のテクスチャを持った紙などの束を一枚ずつ払いのけていった。
残り何枚あるかは、私たちには分かるが、taroには分からないはずだ。
むしろ、taroはこれらの紙を払いのけているという感覚すら持っていないことを、私たちは望んでいる。
そんなtaroを、私たちは、私が誰なのかということにも依存しながら、各々が心地よいと感じるような距離感を意識しながら眺めている。
(ここからは「私たち」はすべて「私」と表記いたします。複数の「私」である「私たち」には、それぞれのバースが存在し、
基本的には相容れない。しかしながらtaroにとっては「私たち」の集合も、「私」も同じであるからです。)

時には注意深く、時には散漫に、寝転びながら、立ちながら、立ったと思ったら座りながら。珈琲を啜る私もいれば、電車に揺られている私もいる。
あらゆる私の中で、taroの像は結ばれ、呼吸をしている。
しかしながら、どれだけ注意深く眺めていても、私たちの脳で像を結ばないときもあるし、何度も眺め返してはようやく理解することもある。
大事なのは、taroと私の関係だという、ある私もいる。
しかし、この私は、あくまでtaroはtaroであり、taroと私の関係は本質的に大きな意義を持たない!と考えることもできるというポジションなのです。
私に固執しすぎたので、taroの動向を追い続けようと思う。
taroを追跡する上で、私のこと、またその他諸々森羅万象についての横槍が刺さってしまい、文字の泥沼から抜け出せなくなるのは、私の悪い癖だ。
と言ってるこの現状こそが、なのです。
taroに戻ろう。

taroは今、「起」にいる。と私は認識している。これはその後のtaroの動向に基づき理解しているパターンもあれば、
別の私が、すでに広大なネットの海に挙げたものを由来として認識しているパターンもある。

大事なのは、taroが「起」にいることを自覚していないことだ。
仮にtaroが「起」にいることを自覚している場合、私が私である、という揺るがない特権が、
崩壊するに違いない。
(無論、「起」にいることを自覚できるものが全くいない、というわけではない。ご存じの通り、
DEADPOOLにはそれが可能なのだ。)



私'は抗いようのない睡魔にさらされているため、一度Ctrl+Sで保存し、
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