見出し画像

水族館と映画 いい映画から学べること

 水族館って映画に似てる。ちょっとこじつけ、いやかなり暴論かもしれないけれど、この記事では水族館は映画であると言い切ってしまおう。だって水族館をめぐり終わった後、何だか映画を見た後のような気分になることないですか。そんなことはないかな。

 ここでも述べているけれど、僕は水族館が大好きで、なぜなら、目の前にある水中世界が超、非日常だから。水族館体験は非日常体験だと思ってる。一方、「旅」というのもまた非日常体験で、その点は水族館と似ている。だけど旅で見る非日常というのは、「誰かの日常」を見てるはずで、例えば街並みとか、料理とか、人とか、「旅っていいなー」って思うものはみんな、誰かの日常だ。「再現した日常」である水族館はその点、旅とは違う。
 この話はここで詳しく書いてるから見て欲しいんだけど、要するに非日常体験には2種類あって

誰かの日常としての、非日常と  (旅)
造られた、非日常。  (水族館)

 ということを、水族館に行くたびに感じる。ディズニーシーがわかりやすい例えかもしれない。ディズニーシーの中にはイタリアのヴェネチアが忠実に再現された場所があるけど、それは忠実な再現であって、造られた非日常だ。実際にヴェネチアに旅をしたら、それは誰かの日常がある非日常だ。
 残念ながら前者(再現)は後者(実体験)に、あったかさとか、痛烈に記憶に残るかとか、その点絶対に勝てないと思ってる。だからみんな旅に出るし、旅に出て人生変わったとか言う。だってみんな口を揃えて、留学して人生変わったとか言うもの。ただ、人工的な空間だからこそできることってあると思う。水族館と映画を比較することで、水族館の可能性を探ってみたい。

画像1


 さて前置きが長くなってしまったけれど、この造られた非日常という点で、映画と水族館は同じだと思う。対して誰かの日常があるという点で旅と似ているのは、ドキュメンタリーだ。水族館vs旅という構図を、映画vsドキュメンタリーに置き換えてみよう。はちゃめちゃな比較でごめんなさい。

映画にもいろいろあるけれど、監督がおり、脚本があり、俳優さんが演じで、編集して映画ができる。一方ドキュメンタリーは、事実が起きている現場で、本人を撮り、リアルな生活を撮り、リアルな声を撮る。映画は、一度「脚本して演じる」という、つくる過程が一回挟まる。ドキュメンタリーはもちろん編集や脚色はあっても、そのまま誰かの日常を撮る要素が大きい。

そしたらば、実際の海中を一回水槽の中で再現する水族館は映画だ。水中窓はドキュメンタリー。タッチプールは映画で、磯遊びはドキュメンタリー。イルカショーは映画で、イルカウォッチングはドキュメンタリー。黒潮大水槽は映画で、黒潮に本当に潜れば、ドキュメンタリー。こんな見方ができるんじゃないか。

 そしたら水槽で泳ぐ生き物1匹1匹は、キャストに見えてくる。擬岩はよくできたセット。本当によくできてる。プランクトンはエキストラ、水族館スタッフは映画スタッフだ。館長は監督。最近の綺麗なアクリルガラスは最新4Kのフルハイビジョンと言っちゃえ。かの有名な水族館プロデューサー、中村元氏は、いくつもの映画を大ヒットさせてきた鈴木敏夫氏と言い換えるかも。比較は本当に暴論だけど、面白いのだ。


 ここで、いい映画とは何か考えてみたい。価値観はもちろん人それぞれだとして、僕は「見た人の人生をちょっと変える」映画が好きだ。ベンスティラーの「Life!」とか、「きっと、うまく行く」とか、あと好きなのは「ニューシネマパラダイス」。すごい心動かされて、結構見た後の人生変わった気がする。
 あと、キャラクターが魅力的な映画も好きだ。ジブリや、最近だと「スリービルボード」が好きだった。その映画では登場人物一人一人がみんないい面と悪い面を持ち合わせていて、人間臭くて、共感が持てた。

 そう考えると、一つの水族館、あるいは水槽を作るとき、そのキャストをどう生かすかはスタッフや監督の手腕にかかってくる。「来館者の人生をちょっと変える」映画はどんな水族館だろうか。キャラクターが魅力的な映画はどんな水族館だろうか。個性的な面々を集めればいいってもんじゃない、生き物の相互作用の複雑さ、その中のいい面、悪い面、捕食する面、被食される面。そんなキャラクターが引き立つ水族館があったら僕は絶対好きだ。


 社会風刺も立派な映画の役割だ。近年話題になった「万引き家族」、「ジョーカー」、「パラサイト」は貧困格差をそれぞれの視点で描いていて、どれも衝撃的で、社会が引き込まれた。ただ「こんな問題がある」って啓蒙するだけじゃなく、一つの物語の中でうまくメッセージを伝えていると思った。
 水族館も環境問題への啓蒙をする。自然保護を呼びかけている水族館はいくつもある。これもある種、同じことだ。ただ「プラスチックが増えてます、外来種が増えてます。ゴミを分別しよう、ペットは捨てないで」っていうだけじゃなく、その水族館ならではの描き方でうまくメッセージを伝えていけたらいいなと思う。暗示も遠回しも、なんでもありやって思う。

 映画から学べることはいくつもある。次は試しに、どんな映画は嫌か考えてみる。これも僕の話だが、まず、言いたいことがさっぱりわからない映画は嫌だ。場面によってバランスがちぐはぐな映画も嫌だ。テンポが異常に悪い映画も苦痛だ。そして、興行収入を稼ぐことにしか興味がない事が見え見えの映画はあまり心に響かない。全部、水族館に言える事だと思う。水族館の主な役割は「自然保護、教育普及、調査研究、レジャー」と言われるが、興行であることが水族館の大前提であることは構わない。でも人を呼ぶことにだけ尽力しすぎている水族館は、心に響かない映画のようだ。実際、いい映画には人が来るものである。

 
 ただ、デートで水族館に行って「この水族館は良い映画みたいだね
」なんていうのは絶対やめたほうがいい(笑)。「この水槽で
エンドロールを作るとしたら、やっぱりジンベエザメは一番最後に来るのかなあ」なんて言った暁には、意味不明な価値観の持ち主だと思われてしまうので、決してオススメはしない。

 「映画」という業界を発展させてきた要因の一つとして、「映画祭」や「批評家」、そして「零細映画館」の存在があるのは確かな事実だろう。カンヌ、ベネチア、ベルリンの三大映画祭に代表される国際映画祭では、世界の映画監督が集まり映画を評価するだけでなく、バイヤーや批評家、プロデューサーなどが集まる。新しい作り手が企画書を持ちより、監督は自分の映画の評価がわかる。こうして映画界全体は底上げされ、盛り上がってきた。そして若手監督は街角にあるような零細映画館で、初めはキャリアを積んでいく。「そして父になる」や「万引き家族」などで知られる是枝祐和監督は、著書”映画を撮りながら考えたこと”の中で、こう述べている。

「(前略)映画祭というのは、僕にとって学びの場でもあります。特に
他の国の監督たちと話すと、日本が置かれている状況がいかに得意なのかが見えてくるし、自分の作品が外国人の目に触れたときにどう見られるのかというのを考えざるを得ません。そのあたりの認識は、二十年映画を作りつづけ、各国の映画祭で彼らと出会うことで、かなり成熟したのではないかと思います。」

このようにローカルな場で作品を試すような、そして国際的な場で評価するような枠組みが、映画界にはしっかりとある。これは水族館界全体を盛り上げていく上で、参考になるのではないか。

今、水族館を評価して「この年一番の展示を決める」という映画祭のようなイベントはないが、水族館間の国際的な交流の促進と、客観的な視点を得られるという点で、大きな存在意義があるだろう。ネイチャーアクアリウムに関しては、ADA(アクアデザインアマノ)社が、「世界水草レイアウトコンテスト」を二十年間続けており、業界を盛り上げてきた。このように、これからの水族館を考える上で、映画祭ならぬ「国際水族館祭」というのは可能性の一つに考えても良いと思う。世界有数の水族館大国である日本は、これを牽引していく素質があるよ!絶対。


 そして、これからの水族館を考えていきたい、展示を作っていきたいという人を広く受け入れ、試す場、それこそ零細映画館のような場所の整備も価値があるんじゃないか。現在ある水族館の一角や、まちのビル、公園の中でもいい。例えばそこに空の水槽や基本的な設備が用意されていて、挑戦したい人が自分の企画をそこで試すことができる。展示は短いスパンで、変わっていく。それは一般人でも、関係者でも水族館マニアでもいい。そんな言わば「館長不在の零細水族館」は、新しい水族館のカタチになって欲しい。


こんな感じで、水族館が映画から学べることはたくさんあるはず。これから水族館に行くときは、こんな視点で水槽を見てみても面白いと思う。
 
 水族館って映画に似てる。ちょっとこじつけ、いやかなり暴論かもしれないけれど、この記事では水族館は映画であると言い切ってしまった。だって水族館をめぐり終わった後、何だか映画を見た後のような気分になることないですか。そんなことはないかな。きっとあるはず。

画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?