努力主義

「努力」について考える機会があったので備忘録

努力を経て何らかの成果を勝ち取った話を聞くと、潔いと感じる。がんばれば認めてもらえる、報われると私は思い込みたい。
しかし、そこには落とし穴がある。

努力をどのように計測するのか
成果が出ればたやすく努力をしたという実感が持てるだろう。スポーツの大会で1番になったとか、100時間の残業をしたとか。これらは1とか100といった数値を係数として努力を計測しようとしている。その計測方法はいかにも合理的に見える。AさんとBさんの努力量の差異を客観的に判断しようとするならば、順位や時間と言った可算のものを用いることが合理的なように思える。

平等と公平
 では、そうした可算名詞によって露見した成果は本人の努力とどれほど相関があるのか。身長170cmの二人が2mの高さの棚から同じ荷物を降ろす場合、二人に求められる努力量はほぼ同一であろう。しかし、身長147cmの猫ひろしさんと174cmの和田アキ子さんでは、高さ2mの棚から荷物を降ろすという作業に求められる努力量は大きく異なるだろう。ひとつの事例だけで
2者の努力量を比較して批評することはあまり意味がないと考えられる。2mの棚から荷物を降ろすという作業によって明らかになるのは、本人の努力量ではなく身長という努力とは関係のない特性であった。
 それでは猫ひろしさんがもともと高さ50cmの踏み台に乗っていたらどうだろう。すると猫ひろしさんの地上から頭までの高さは147+50=207cmとなり、荷物にやすやすと手が届くだろう。それでは努力量はというと、踏台を準備する努力、踏台に上り下りする努力、最後には踏台を片付ける努力が加算される。もっと細かく考えれば、荷物を下ろすときに必要な筋力は‥、荷物の大きさと肩幅の関係は‥、作業を行うのにかかった時間は‥、作業を行うときの2人の体調は‥。単純な作業ひとつとっても2者の努力量を正確に公平に比較しようとすればするほど沼にハマっていく。

振り返って
 それでは、上記の事象を現実に置き換えて考えてみる。例えば学歴。今や日本では男子校や女子校といった性別による区分けを除けば、殆どの学校に行こうと思えばいける。そのために先人が奨学金というものを用意してくれたり、学生アルバイトできる環境を整えてくれたのだ。‥と言うのは当事者意識のない現状解釈であろう。奨学金やアルバイトはノーコストではない。獲得するための努力や縁が必要なのは明らかである。それができる人だけが教育機会の均等の権利を行使できる。正直にいって「努力よりも”運”」だと思いたくなる。しかし、この危険思想は認められないのだ。なぜなら努力によって現代の富を築き上げてきたという矜持を捨てることができないからだ。いい大学と言われる学校へ行った人はこぞって受験勉強の努力の自慢をするし、発言しなくても心の何処かで思っているのかもしれない。運という非常に捉えにくい要素よりも明示しやすいので、それは仕方のないことだろう。努力を否定するつもりはない(正直否定してサボりたい)が努力が第一という味方が社会全体に広がり、分断が生まれているような気がしてならない。

 昨今の余裕の無さとそれに対する無力感は一体どうすればよいのやら。

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