シェア身体とケア身体(インターネット男女論争を読み解く)

なんでも制服姿の女子高生が(とくにエロい感じではなく)描かれた『たわわな月曜日』なる漫画の広告が日経新聞に載ったとかで荒れない日はないツイッターのいつも荒れている人たちが荒れている。あれを議論と呼べるならの話ではあるが議論の内容は作品タイトルが変わっただけでいつもと同じなのでとくに触れないとして、それにしてもどうしてこう飽きもせず何度も繰り返し広告の女性表象を巡って男女の喧嘩になるんだろうか。身も蓋もない答えはバカが多いからということだが、そこで思考を止めるとこちらの脳まで腐ってくるのでちょっと考えてみた。で、もしかしてこういうことなんじゃないかっていうか、こういう概念を通して見ると腑に落ちるんじゃないかと思ったのが、シェア身体とケア身体という身体イメージ。結論から言えば男はシェア身体のイメージを持ちやすく女はケア身体のイメージを持ちやすいのでそのズレが終わりなき広告表象炎上を生み出してる。せっかくがんばって考えたのでそれを俺の脳の中にしまいこんでぐふふふさすが俺天才と一人で気持ち悪く悦に入っていないで、じゃあシェア身体とケア身体とは何かというのを備忘録も兼ねてここに書いてみたいと思う。

シェア身体

シェア身体は端的に言えばすべての身体は一つであるというイメージで、一つであるから同じであり、したがって各身体は他の身体と等価交換が可能である。どういうことか。これは基本的には男文化の中で形成される身体イメージで、女の身体と違って男の身体は出産ができない。出産に関して言えば女の身体は一つ一つ替えが利かないが受精用の男の身体はいくらでも交換することができる。われわれの文化は発展すれば発展するほど出産とか受精とかいう原始的な機能からは遠ざかっていくが、それでもいまだ出産と受精は人間の重大な関心事には違いなく、個人の関心に加えて社会の側からも人口維持の圧力がかかるわけであるから、人間の文化に出産と受精が深く根を下ろしていても不思議なことではない。身体について知ることは出産を知ることであり、出産を知ることは身体を知ることなので、身体イメージの形成に出産が無関係ということはありえない。そうしたことが文化の中でなされる。

シェア身体はいくらでも替えが利くという負い目や不安と、いくらでも替えが利くということは全ての身体は一つであり、自分はその巨大な身体の一部であるという安堵や自信をコインの裏表にして結びつける。有史以来戦争といえば男がやるものだがそれはシェア身体の両義性に根ざしている。男の身体は使い捨てにしても構わないと当の男が考えているので動員しやすく、男は自身の身体を使い捨てにすることで自己を超えた巨大なシェア身体の存在を無意識的に感じ取り、入り込み、救いを感じる。戦時のシェア身体は国家の形で表現されるだろう。

暴力犯罪の男女比率で女が男を上回る国はおそらく存在しない。地球上のありとあらゆるところで男は女よりも暴力のハードルが低い。なぜ男の暴力のハードルが低いのか、小学校や中学校の男子遊びを観察すればそこに見出せるシェア身体が暴力ハードルを下げていることが直感的に理解できるのではないだろうか。ある種の自傷(罰ゲームなど)を伴う遊びはおそらく男子遊びに特徴的なもので、注目すべきはそれが特定の誰かではなく誰もが自傷を行う可能性のある遊びだということである。ここでは自他の身体が区別されていない。わたしの身体はあなたの身体であり、あなたの身体はわたしの身体である、といった暗黙の結びつきがある。ゆえに、自傷が遊びとして成立する。自傷遊びをする男の子にはこのように感じられる。「たとえ誰かが自分を傷つけても心配する必要はない。なぜならその身体はわたしの身体だからだ。その痛みはわたしも知っていて、耐えられる程度の痛みだとも知っている」

おそらくそんな想定はしないだろうが、仮に自傷遊び中の事故で友達が死んだとしても、仲間たちは反省できない。シェア身体のイメージを持つ人間にとって身体の死は本質的な意味ではありえないからだ。たとえ友達の身体が死んだとしても、その身体の中に友達がいるわけではない。友達の身体はシェア身体の一部であり、自分の身体もまたシェア身体の一部である。従ってそれはシェア身体の一部が欠損しただけであり、シェア身体と繋がる身体を持つ自分は、死んだ友達をシェア身体の末端としての自身の身体の内に持ち続けるだろう。これは宗教的な観念の世界といえる。シェア身体を持つ人間…多くの場合は男…にとって暴力は、「他者」に対して行使されるのではなく「自分の身体の一部」に対して行使するものであり、ゆえに暴力を行使する権利がある(それは自分の身体だから)、と考えられるのである。

ケア身体

ケア身体は女文化の中で培養される身体であり、出産の重要性が男文化のそれとは真逆の形でその輪郭を形作る。ケア身体は他者と共有することのできない独立した身体イメージであり、その崇高は本質的な身体の繋がりの欠如、孤独を一人一人に深く刻みつける。シェア身体の表現が国家や世界ならケア身体の表現は母体と子を切り離す出産である。

ケア身体の世界観の中で身体はなによりケアされるものである保護されるものとして把握される。シェア身体と異なりケア身体は自分の身体が滅びれば一巻の終わりなわけで、それは他者の身体の滅びについても同様だから、ケア身体のイメージを持つ人間にとって暴力や自傷はもってのほかということになる。その意味で他者を他者として認識できるのはケア身体のフィルターを通した時だけだと言える。他者を認識できるがためにケア身体は異物からの保護を求め、同時に異物の排除も求めるのが基本的な態度になる。

女文化における様々な繋がりの志向は強烈なものがあるが、それはケア身体の孤独がそうさせるのだと言うことができるかもしれない。シェア身体の持ち主は性行為の際には自分が気持ちよければ相手も同じように気持ちいいと浅はかに思い込む。ケア身体の持ち主にそのような夢想はない。自分と他者の肉のぶつかり合いが性行為なのであり、一体になることはできないと無意識のうちに理解している。しかしながらそうであるためにケア身体の持ち主は恋愛や性行為を含めた様々な密な繋がりを切望する。それが本質的には決して手に入らないと理解するからこそ求めずにはいられないのである。

こうした繋がりの維持に不可欠なのがケアの技術であり、それは本来的に他者でしかありえない人間同士が繋がりを保つための普段の努力の体系である。わたしはあなたをいたわる、だからあなたもわたしをいたわってほしい、であり、個人と個人の暗黙の契約といえる。女文化はおしゃべりの文化であるというようなことはよく言われるが、それは絶えず仲間であることを確認していかなければその繋がりはすぐに切れてしまうことを心のどこかで知っているからなのではないだろうか。ケア身体とは切ない身体である。

広告ーシェア身体とケア身体の衝突

このように見た時に、シェア身体とケア身体では広告に表れる身体表象の持つ重要性が対話不能なレベルで異なることがわかるのではないかと思う。シェア身体の持ち主にとってはそれが女だろうが男だろうがどちらでもなかろうがすべて自分の一部として感じられるのであり、したがって自己と広告の間に壁はない。ケア身体の持ち主にとっては自身の身体の性が広告に用いられること自体が不快な経験である。なぜならばそれは身体の独立性を剥奪しなんらかのメッセージに従属させることだからだ。ことにアニメや漫画のような抽象度の高い身体表現はその度合いが強く、よく広告身体表象批判の文脈で用いられる身体の「モノ化」というのは、いみじくもこれを非難しているのだと解釈できる。こうした事情に加えてケア身体の世界観に置かれた身体表象は他者でしかあり得ないのだから、シェア身体の持ち主がまるで理解できない拒絶反応がケア身体の持ち主に生じたとしても、それは当然の反応なのである。

シェア身体は男文化の中で、ケア身体は女文化の中で培養されるといっても、現代社会のとりわけ都市部では一人の人間が男か女か一方の文化にだけ浸っているということはありえない。従ってシェア身体とケア身体の両方の身体イメージを持つ人間も珍しくはないわけで、そんな人間であれば不毛な身体表象論争に与せずに済むだろう。それをかつては成熟と呼んだのではないだろうか。シェア身体のイメージは寛容や勇気を人に与える一方で他者を他者として尊重することをできなくし、暴力や殺しをも容認する。ケア身体のイメージは自立と連帯の知恵を人に与える一方で他者をあくまで他者として扱う冷たさも与え、自分や自分たちさえよければの身勝手さを容認する。それぞれの身体イメージの欠点を認めた上で今の自分とは異なる身体イメージを受け入れて欠点を克服する…と書けばなにやら自己啓発じみてくるが、身体表象に敏感過ぎるのも、また逆に鈍感過ぎるのも、あまり成熟した大人の態度とは言えないと思うのだ。


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