「敗北のスポーツ学」序章読書感想文。
読書感想文だが、ほぼ自分語りになる予感がある。
読書または読書感想文とはそういうものだと思う。どこを切り取り何を思うかは人それぞれであり、「本を読む」とは人の物語と自分の物語の邂逅であると思うからだ。
「予感がある」としたのは私の読書感想文は「読みながら書くスタイル」であるからだ。まだ序章しか読まずにこれを書いている。
後から自分で読み返した時に思考の流れが見えるので気にいってるスタイルでもあるし、読書の習慣はついてない読書にわかなので1日に多くは読まないがそれでも良いのだと自分を肯定できる面もある。
序章はコチラでほぼ原文ママを既読。
1/27の記事、読んだのもその頃であり「面白そう」「読みたい」という記憶だけ脳に刻まれていた。
4/7、友達に誘われて遊んだ。
私はとある読書サークルに所属しており、その繋がりで出来た友達だ。
前日の夜に急遽遊ぶ約束になり、そのテンションのまま徹夜で語り続け、そうして「池袋の大きな本屋に行こう」「待ち合わせが10時だと起きれないのでこのまま寝ずに7時から喫茶店で逢おう」という流れ、彼は現金を持ってないので喫茶店は奢って欲しい、代わりに本を奢ります、と。
それを聴いて1/27の記事の記憶が頭に浮かんだというわけだ。
本を買うやつはバカ。
これは私の持論である。説明しようとするとnote一本分の記事になりそうなので、ありそうな語弊をそのままに説明は割愛する。そして買わない私も勿論バカである。
読書サークルに入ったのは半年前だが、11月に2冊、12月に2冊を読んだだけで読書はお休みしている。
その間にもサークルでオススメされている本の中から「これは面白そうだな」という本の表紙はスクショで積読しており、おそらく50冊程はあると思う。読書習慣をつけるならば月に2冊を自分の中で目安にしている(図書館の返却期間やnoteを書く時間から逆算)ので一生積読が増え続ける気もするが、やはり人生そのものも世界の「どこを切り取り何を思うか」そして何をするかという問いであろうから、それはそれで良いとしよう。
集合知。
そんな私が5冊目になぜこれを選んだかと考えると、集合知という言葉が浮かぶ。
サークルで挙げられる本は、マルセル・モースであったりジョルジュ・バタイユであったり柳田國男であったりする。
それらを皆で読み語り合うことは、とてもよい経験になり知性になる。そういう集合知の形ももちろんあるが、私はサークル民が読まなそうな本を読んで感想文を書きたいという欲が産まれた。
私はスポーツ(観る)とギャンブル(やる)が好きなのだが、サークルでは少数派である。知性ある人が集まる場において、しかしそれらをやってなければ得られなかったであろう知見を私だけが持っていることもあるのでは?という問い。
もちろんサークルの後を追ってマルセル・モースを読むというようなこともやっていきたいが、過去にサークルの課題図書となったモースの「贈与論」が、「敗北のスポーツ学」の中でも取り上げられているという発見(本を奢ってくれた彼が見つけてくれた)にも不思議な縁を感じている。
本に呼ばれた。またしてもこの感覚を味わい、楽しみが膨らんでいる。
「敗北のスポーツ学」
副題に「セカンドキャリアに苦悩するアスリートの構造的問題と解決策」とある。このタイトルから何を感じるか?
「敗北」といえばドーハの悲劇の記憶はあまりにも大きい。
家族でテレビで観ていた。残酷な結末でスタジオも茶の間も凍りついたその空気に耐えられず母が漏らした「残念だったね〜笑」の言葉に「笑ってんじゃねえええ!!」とガチギレした思春期。
アメリカに行けずフランスでグループリーグ敗退、日韓で突破したもののドイツでまた敗退。そういう軌跡を観てた頃は「あのドーハがなかったら今頃もっと上に行けてたのではないか」と妄想したこともあったが、その後も突破と敗退を(言い方は悪いが見事なまでに1回おきに)繰り返しているのを観てきた今はきっとそうじゃないと思える。「あのドーハがあったからずっとワールドカップに出られているのではないか」とさえ思う。先輩達への感謝。
他人の祭り。
確かにそうだ。あれは他人の物語だ。でも、それを観て何を思うか、何をするかは自分の物語だ。
「笑ってんじゃねえ」とキレたあの思春期のパワーを、もしかしたらサッカー界の何かしらで働いてるおっさん達(私の世代)はぶつけてるのかも知れない、そんな人は結構いるんじゃないかと妄想する。そのくらいアレは大きな祭りだったと思う。
辰吉丈一郎。
「敗北」と聴いてもう一人想起する(してしまう)のは辰吉丈一郎さん。早いラウンドでKOを積み重ねるこのボクサーも私の思春期のヒーローだ。
WBC世界バンタム級王座統一戦、日本人対決となった伝説の薬師寺保栄戦。顔面をボコボコに腫らし、フラフラになりながら12Rを闘い抜き、そして彼は敗北した。
信じられなかった。観たくなかった。それでも画面に釘付けになった。「敗北の美学」みたいなものをそこに観た。
おそらく本人は言うだろう、それはどこかでみたインタビューの記憶の再構築なのかただただ私の妄想からなのかは分からないが、私の中の辰吉丈一郎は言う。
「負けに美学もクソもあるかい!」「勝たな意味ないんや!」
でもジョーは勝ってたんだと思う。相手にではなく自分に。だから私達は目を離せないし、闘い続ける姿に魅了されるのだろう。
それを観て、お前は何をやるんや?
意味のない勝利、意味のある敗北
これは「敗北のスポーツ学」序章の小見出しの1つ。
「結果が全てではない」「何のためにサッカーをやってきたんだ」筆者が投げ掛けてくる問いが思考を深めさせる。
大学でキャプテンとして「勝利」を手に入れた筆者が、その成果物が入っているはずの箱を開けると「そこに何もなかった」という描写に胸を打たれる。
逆に弱小チームにいた中学時代の指導者の「卑屈になるな、それがお前の特徴だ」という言葉や「どうやって生き残っていくか」という問いは、人生を歩いていく上で大きな糧になる重要なものだと思うし、今でもそれが思い出されて本に記されるという所からも、とても聡明な指導者だったのだろうなと想像させられる。
副題の「セカンドキャリアに苦悩するアスリートの構造的問題と解決策」にも思うところがある。
それは私が日銭を稼ぐ日雇い労働をしていた時の話。日雇いとはいえ続けていると周りには見た顔が増えていく、その中に「元Jリーガーです」という人がいて、その現象をどう捉えるかは本人が決める、本人の物語ではあるのだが、何とも言えない気持ちになってしまった。
そんな問いにもこの本は1つの答えを提案してくれる気がして、とても楽しみである。
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