庭ぐらしダイアリー zen-to-aku

森山未来さんの展示を観に行った後、ふと本が読みたくなって、地元の図書館に寄りました。

「ジーキル博士とハイド氏」

なぜか舞台で使われた本ではない本をチョイスしましたが、なんとなく繋がりを感じたので、読んでみました。

舞台はイギリスだったので、わたしの好きなシャーロックホームズの世界観とどことなく似た雰囲気を感じました。どこか暗くて、何かが起こりそうな場所。紳士として振る舞う男性の含みのある言葉遣い。奇妙な出来事と友人の奇怪な行動。わからない謎に包まれている出来事は、最後の手紙を読むまで、ずっと私たちの”真実”を知りたい好奇心を離しません。

この本の主題と言ってもいいのが、相反する二つの物事。未来くん(勝手にそう読んでます)の舞台でも表現されていた、考察の一つの結果として、この物語があるのかもしれない、そう思いました。
「ジーキル博士とハイド氏」では、”善”と”悪”、この二つについて、物語を通して問いかけられています。

”善”とは何か?
”悪”とは何か?

哲学の一つの問いでもありますが、考えてみたことはあるでしょうか。
わたしはこの問題に心を揺さぶられてきた一人でもあります。

せっかくなので、少しわたしの昔話にお付き合いください。
わたしは物心ついた時から、なぜか儒教の考え方を守らねばならない、という使命感に駆られていたことがありました。その所以はわからないのですが、気づいた時には、その考え方がわたしに根付いていたのです。

そこまでは特に疑問にも思いませんでした。きちんと教えを守ることは、当たり前のことだろうと思ったからです。不思議なことですが、どんどん深まってくると、一つの疑問が出てきます。その考えに沿っていない人に、”なぜそうしないのか?”と問い詰めたくなります。そして、つい苛立ってくるのです。

どんどん加速していく時、わたしの中の”正しさ”みたいなものが、暴走し始め、苦しくなってきました。そんなわたしを担任の先生に見抜かれたことがあります。
暖かな日差しの入る教室でぼんやりしていた時のことでした。斜め前の席で(ちょうどわたしが一番前の席だった)教卓から先生がぬっと顔を出してボソリと言ったのでした。

「いろんな奴がいる、そんな今の環境を今のうちに楽しんどけ」

そう言われて、ハッとしたことがありました。その時わたしは、この状況から抜けたいなあ、と思い、とにかく勉強して違う世界、安心できる世界にいきたいと願っていました。わたしとは感覚の違う人ばかりに囲まれて、疲れていた部分もあったのです。そんな時に、突然鋭く矢で貫かれたような感覚がありました。

自分の感じたことは嘘ではないのだけれど、時に自分の思考に自分が飲まれることもある。それを警告してくれた、一言だったのではないだろうか。

どんな人の体にもこの相反する二つの物事がせめぎ合い、私たちは生きています。これからも、生きている限り、この考察は続いていくのだろうなあ。

そんなことを思う今日この頃です。

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