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日々アプデされる自分の思考

最近、あんまり書くことができなくなっていた。小さな旅から帰ってきた今は、なんだか書ける気がして書いてみる。

書けなくなった理由として、去年から自分が少し変わってしまった。いろんな要因が重なっていて、詳しくは省くけれども(自分がわかってないところもあるし)、一言で言えば「自分に集中している」状態が続いている。そして、外に文章にして発することが抜け落ちてしまった感じになった。

振り返ってみると、過去には他人の軸で生きてきたと思う。他人にどう思われるか、が自分の優先順位のいちばんにきていた。それがどういうわけか、2022年の終わり頃からパッタリ無くなってしまったのだ。

自分と他人を比べることができなくなった。だって全然違う存在じゃないか。どう比べたらいいのかわからない。

比べるということは、何かの条件が同じなはずだ。性別上で女性だから、同い年だから、同じ学校だからー。学生時代は顕著だが、卒業した今となっては、それぞれがそれぞれの人生を歩んでいる。

わたしも全く比べることがなくなったわけではない。〇〇さんは結婚したんだ、子どもがいるのか、といったいわゆるライフステージの変化に悩んだこともある。昔はそこから逃れる部分もあり、反発し、自分を見つけようと必死だった。「そんなことは気にしない」と言っている自分になりたかった。ある意味の戸惑いと意地があった。それはそれなりに楽しい学びの時間だった。だけれども、他人を軸にすることは変わりない。「気にしない」というふりをしていたのではなく、本当は必要ないことも必要なことと捉えてしまっていた。

そこがどうしたことか、その必要なこと以外をパッと捨ててしまった。(今のわたしにとって必要なこと、先では違うかもしれない)ごめんなさい、自分本位で生きますね、と思っている。自分にとって、何が幸せか、今の点における自分を捉えられたからかもしれない。

人にとって、幸せなことは違う。大学時代から「幸せってなんだ?」と思って軽く研究してみたりもしたのだけれど、それはその環境による精神性かな、とその当時は考えた。もちろんそれもあると思う。ただ、膨大な情報と数ある精神性を学ぶというよりも、自分にとって何が好きなのか、そしてそれをやってみるというシンプルなことなのだと思う。あ、今お腹空いたからご飯食べよう、くらいのものなのだ。

精神性については、わたしも通ってきたし、そこで学ぶこともあった。ただ、自分の好きなことに、気づいてなくて、それを与えてあげられるのも自分ということには気づいてなかった。やりたいことや好きなことは、半永久的なことではなく、自分が「今」「何をしたい」「何が好きなのか」。そして、その時の状況や流れ、タイミングによる。

全てはその瞬間に出会うもの。それだけなのだろうと思う。きっとそれぞれ無意識的にやっていることを、わたしは今は意識的にやっている。自分との対話と言うのはこういうことかなと思ったりしている。

その時に厄介なのが、「こちらの方がお得だ」みたいな考えだ。それは多分本質ではなくて、他人軸、社会が求めている、自分のsneaky(こっそりした欲、的なイメージで使ってます)みたいなところになるのだろう。そうすると、自分自身の考えは小さくなる。「そちらが正しいだろう」とか言って、自分の本質は不貞腐れてしまうのだ。

このブレる時が自分を信じる時なのだと思う。間違ってもいいから、思う方に飛んでみる。時には「お得な」方を選んでもいいだろう。わたしもバランス型なので、よそ見する気持ちも痛いほどわかる。ただ、その何処かにある気持ち悪さは残る。その場で誤魔化せても、意志に嘘はつけない。

多くの人がわかっているであろうことを、わたしはやっと身をもってわかりかけてきた。

思ったより長くなった。一文字も書けない状態でも、書いてみると存外書けるものだ。今年も変わらずフラッと書く日々を送ろうと思う。

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