遊ぶってなんだ?

 

皆に聞きたい。皆はどう思う?


 大きくなってから、こんなどうでもいいギモンを持つようになりました。

 ’原因’は至極単純なもので、楽しくない時間が纏わりつくようになったからです。なので、そこから自動的に(因果関係みたく)楽しくなりたいな~なんて思うようになり、じゃあ遊ぶか~となり、で、じゃあ何して遊ぼうかな~どうやって遊べばいいのかな~という風になっていったわけです。川が上から下に流れていくが如く単純ですね。人と遊ぶ時、「じゃあ何しよっか?」なんていうやり取りがなされることは当たり前のようなもので、そこで何をするかによって、楽しさが変わるのもよくわかる……というか当たり前の話ではあります。

 しかし、ここでアレ?となります。今述べてきたなんでもない、言葉にする意味もなさそうな普通の話に、どこか違和感を覚えてしまうのです。では、その違和感とは何でしょうか?どういったところが違和感なのでしょうか?違和感を覚える”理由”は何なのでしょうか?

 ここまで考えて来たとき、いや考えてしまったとき、自動で生じた流れへの、「なんで流れて来られたんだろう?」という、理由探しが始まりました。これは、わざわざ、日常に起こる当たり前の現象を、科学的な視点で解明しようとするのと似た姿勢です。川の流れの例で行けば、万物には引力というものがあって、その物の中心に引き寄せる力で、物から離れている中でもこれだけの距離ならその力が働いて物の中心に引っ張ってこれて、で、地球の例で行くと高いところから低いところへ動かすから……とか、そういう話からなぜ川は流れるのかを記述していく試みと同型の試みですね。(重力の例はカスみたいな知識を基に書いてるので明確には間違ったことを書いているのだと思いますが、ご了承いただければ……)

 しかし、視野が狭く乏しい凡庸な私には、楽しさについて、科学法則のようななぜそうなるのかを説明できる法則を見つけることは出来ません。そこに行くまでの、なんでこうなってるんだろう?で止まりまくって、とにかく足を止めてしまい、その先の説明できるものを見つけるまでには行けないのです。では、どこでそんな足踏みをしているのでしょうか。「楽しくなりたい」「遊びたい」のどこに、足踏みするところがあるのでしょうか。

 なんで、楽しくなるために遊び方を考えなきゃいけないのかな。どうして、あまりにも自然に、それこそ川の流れのように、楽しい≒遊ぶことと捉えているのだろう。しかも、「何して遊ぼう」とか「どうやって遊べばいいのか」などと考えている……。
 ここでは、遊ぶ方法というものが、流れの行き着く先を変えてしまうと思っていることが問題となっているわけです。つまり、楽しさが遊び方によって変わると捉えている。
 しかしながら楽しさとは遊び方によって変わるものなのでしょうか。少なくとも楽しさは、遊びに依存しているだけというわけではないように見受けられます。たとえ遊んでいなくても、楽しいと感じることは可能そうに思えるからです。遊びに属さない行為……例えば仕事をするにしても、人によってはそれを楽しいと考えるでしょう。また、遊んでいるはずなのに楽しくない、という感情が去来した経験を持った方も少なくないはずです。
 

楽しい遊び方ってなに?


 なんで遊ぶと楽しいのかな?
 そりゃそれが遊びだからだろ、という風に素朴には考えるでしょう。しかしながら、遊ぶからと言って楽しくなるとは限らないのでは、ということは今まで違和感を頼りに疑われています。そうであれば、問題は少なくとも「楽しい遊び方」があるのか、あるとしてそれはどういうものなのか、ということになるでしょう。
 もともと、目的は楽しくなりたい、だから遊ぶということでした。でも、遊ぶってなんだっけ?に立ち止まった今、今度は「楽しい遊び方」について考えねばなりません。
 しかし、そもそもなぜこんなことを考え"ねばならない"のか?そんなこと必要ないじゃないか。これもまた至極真っ当な考えです。しかも、よりによってnoteで記事を作ってまでやることか?と問われるならば、返す言葉もございませんというところです。
 ですが、やはりつまらないのです。最近私は楽しくない。でも、どうして楽しくないのかわからない。いや、わかる部分もある。ただ、納得できていない。遊びもまた、解決にならない。

楽しくない

 
 みんなが当たり前のようにやっていること、楽しくなるための前向きな行為、趣味・熱中できること、それを見つけ出すということ。そういったものをするためにいろいろなことを改善しようとすること、ライフハックとか、そういったこと。そして遊ぶということ。それら全てが、なぜだか自分の中の居場所たりえないように思ってしまう。
 それが、私の現状です。
 
 そして、あまり物事を楽しく思えなくなってきた私からすると、「楽しい遊びかた」を考えるというのは今すぐに出来ることではないのです。しかし、もちろん何もかもが楽しくないわけではありません。時には楽しいと思うこともあります。しかし、それらは持続しない。したがって、それらに沿って行為することで楽しさの軸を見つけることも困難になっている。
 そうであれば、記録していき、楽しいと思ったのはなぜか、楽しいの根拠や構造を見つけていけば、もしかしたら楽しいをこれからも持続していけるかもしれない。自身で見つけていけるよう、みんなのようになれるかもしれない。
 だが、単に記録を残すだけでは、楽しいの根拠や構造において誤りや抜けて部分があった場合、気づかない可能性が生じる。ある程度は別時点で視点が変わるとはいえ、だ。そうであれば、その誤り、あるいは気づけなかった楽しいを見つけるためには、(時点を同じくした)別の視点による訂正可能性がなければならない。

 そういうわけで、その記録を残していくためにnoteを始めようというわけです。noteは、これらの条件をクリアしています。そして、これが実際のところ一番大事なのでしょうが……恐らく楽しくない人はけっこう、私以外にもいるんじゃないかと思っています。楽しくないという見出しの直後に書いたような思いを持っている人は、案外少なくないのではないかと。
 願わくばそのような人たちとともに、少なくともこれって楽しくなかった?を考えていきたいのです。それで、そのような人たちが楽しいと思えたなにかが発信されていけば、もう少しだけ楽しくない世界に楽しさが増えるのではないかと思います。世の中には面白いことはいっぱいあるかもしれないけど、楽しいことはそんなにない。でも、そういう風に思っている人たちの楽しいこと、楽しいと思った視点がどういうものなのかわかるようになり、楽しいの構造が可視化されていけば、もう少し世界は楽しくなると思うのです。
 ということで、私自身が楽しいと思ったこと、そしてなぜそう思ったのかについて、一先ずいろいろ書きなぐっていこうと思います。きっとつまらない記事ばっかだけど、まず書かないことには何にもなんないってのが辛いがしょうがないところなんすね。

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