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だから君は今日も神を見る

演劇の感想というのは、格別に共有されにくい。上演期間という制約・座席数という制約、それらとても限定された条件の中で、主にはそれを体験(クリア)した人びとに向けられるものだからだろう。なんつぅプレミアム。

「これは演劇ではない」というフェスティバルがあり(19年初頭)、私はその中でモメラスの『28時01分』を観た(事実)。それで、その感想を書く。つまり、これは『28時01分』の感想である。

モメラスという演劇集団の作品を観るのは、これで二回目なので、彼らがなんたるであるかは、分かってるようでおそらく分かってはいない。なのだが、私は楽しんだし、こうして文章としてなにがしか書き記そうとしているのだから、引っかかりのようなものを感じたのは間違いない。
まあ、モメラスについてはいい。これを読むヒトのほうが、よっぽど詳しいだろう。演劇狂だろう。

で、『28時01分』だが、この作品は出産という普遍的なものをテーマにしている。主人公は妊婦で、と云ったところで、彼女は主人公であるはずなのだが、ある意味、主体ですらない。これでは全然分からないだろうが、彼女は胎児を身ごもっていることで、もう既にこれまでの自分を奪われかかっている(いや、これは私の感想だ。全然そうじゃないかもしれないが)。
いや、これもだいたい間違いであって、そもそも演出的には、彼女が主人公かどうかはやはり怪しい。<語り手>として存在しているだけ。そうとも云える。まあ、いい。これは演劇ではない。文章としては、主人公を設定したほうが、説明的になれるということだ。

彼女は、状況に対して、受動的に流されるタイプの主人公だ。上蓑佳代さんが演じている。情報として。これも示す。そして妊婦である彼女は、出産という胎児の成長、その一方通行に対して、抗うことのできない身体でもある。
そう、あるいはこういう云い方もできる。この身体こそが主たるものであって、彼女のパーソナリティは必要とされない。そうだ、さっきもそんなことを。どうやら、私は似たようなフレーズを繰り返したいらしい。

もう一人の、井神沙恵さんが演じる人物、彼女がこの作劇におけるトリックスターである。観ていない人向けに云うなら、胎児を奪い取ろうとする人物。
これは、モメラスがそうなのか、今日的演劇がそうなのか、私にはいまいち分かっていないのだが、この人物もアイデンティティがあるようでない。悪夢そのものを体現している、人間の皮をかぶった何かなのだ。
だが、その過剰さがユーモアを生んでいて、同時に観客の共感も生むための装置であろうキャラクター。そして彼女が醸し出しているのは、通念のヤバさだ。

他の観劇者の感想を拾い読みしていたら、海外の文化や作品との比較というか連想が割と多いのだが、上蓑佳代さんと井神沙恵さんの人物のやりとりによって生じる物語は、日本的な気遣いの文化を積み重ねたユーモアで成立しているのではないかと個人的にはおもう。
それはしかし、本作がローカルでグローバルではないということを云いたいわけではない。これは小沢健二が『我ら、時』で云ったような<笑い>の意味合いだ。「これ、私たちにしか分からないだろうな」という民族の連帯感を確かめる微妙な笑い。にんまりとした笑い。こういうものを演劇で体験できるのは幸せなことだ。

本作は、ズレを伴ったループ・反復の物語でもあるのだが、胎児の成長がそういった当たり前を許さない。これも逆説的だが、生物的に成長するのは万物の摂理だが、今やそれと同じくらいループ物も作劇としてはスタンダードになってしまっている。
物語の後半、上蓑佳代さんの妊婦の精神がこれから壊れていくんだろうな、と考えていた私の思考パターンも使い古されたもので、モメラスはそういった展開も用意しなかった。
一寸先が陳腐なものになりかねない世界の上で、彼らは目配せをしている。どんなにフラットになろうとしても、私自身だって陳腐なのだ。がらくたのようなもの。しかし、世界もそんなものばかり溢れている。その中で平穏な精神でいられるだろうか? それはとても疑わしい。だから私たちはときどき、マイルストーンを必要としている。例えば、それは演劇を観るというようなことだ。

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