松本零士先生が亡くなってショック

連日投稿するはずが、気づいたらまる一日、開いてしまっていた。
理由ははっきりしている。
松本零士先生が亡くなったからだ。
このことで、身体の芯から力が抜けていくのを感じた。

私は松本零士先生のめちゃくちゃ熱心なファン、というわけではない。
しかし彼の作品が連続してアニメ化された時期、すなわち70年代後半から80年代中盤は、まんま、私の小学校高学年から中学、高校一年くらいまでと合致しているのだ。

このことは大きい。

80年代前半は、私が思春期だったという理由で、最も好きな時代だ。

松本零士アニメは、80年代という時代そのものに影響を与えていたから、たとえ彼が現役ですごい作品を発表し続けたのでなくとも、「亡くなった」ということがショックだったのだ。
普通に考えれば、70~80年代に活躍した少なくない人々が、40~50年経ち、現在は老人になっている。
つまり、亡くなる可能性が高いのが現在だ。
そんな突き放したことをしばらく考えていたのだが、松本零士先生が亡くなったという事実には、そんな思考もヘッタクレもなく、何かこうチョクで、自分の中の何かが失われていく感覚があった。

ネットでは「男おいどん」みたいなSFではない作品が好きだった、「戦場まんが」シリーズが好きだった、少女マンガ時代が好きだった、といろいろな人がいるのだが、私としては松本零士と「SF」は切っても切り離せないのだ。
松本零士のSFは、単純に言って「合体ロボット以外のメカの出るSF」だ。
たとえば新海誠監督の「君の名は。」とかもSFだと思うが、メカが出ないのだ。

なお「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」みたいな映画も、メカが出るからSFっちゃあSFなのだが(他のアメコミ映画も)、ここ20年くらいの「メカの出る未来的な映画」は、ほとんどが「観客が受け入れられるSF的設定やSF的ギミック」をあらかじめ規定して、その中でやっている感じがある(「エイリアンシリーズ」の「オブリビオン」などはちょっと別)。

95年の「エヴァンゲリオン」くらいまでは、「果たして一般視聴者が理解できるのかコレ?」という感じが日本のSFアニメにもあったのである。
生粋のSFアニメというわけではないが、1978年公開の「ルパン三世 ルパンVS複製人間」も、当時「複製人間」という設定はそれほど知られているものではなかったのだ。
これは「バキ道」で宮本武蔵がクローン化されて出て来たことと、まったく意味合いが違うことは、読者諸兄は理解してくれることと思う。

ちなみに近年では「楽園追放 -Expelled from Paradise-」や「まどマギ映画版(メカは出ないが)、GODZILLA (アニメ映画)、「ゴジラS.P」などには「SFらしさ」を感じる。……って思ってたらかなりの作品に虚淵玄が関わってますね。

松本宇宙アニメには、前述のようなハードなSF的設定は、あまり出てこなかった。むしろファンタジーに近いことが多かったのだが、しかしやはり昨今の「明らかに受け手が理解してくれそうなSF設定」しか出てこない作品とは違う。
その理由は当時、現在、受け入れられるようなSF的設定でも一般読者は受け入れられないことがままあったことがひとつ。
それと多くの場合、松本的ファンタジーを、精緻なメカ(それはSF的メカとはかぎらない、「銀河鉄道999」のように)が補填していたという点があげられる。

そう、資質的には松本氏はファンタジーの人であったのかもしれないが、無類の乗り物好き、銃器好きだったためにそこに「硬質な感触」があった。
アウトプットはファンタジーっぽくても、「松本宇宙」の基本はやはり「SF」だったのだ、と思う。

「ファンタジーっぽい」と言えば「銀河鉄道999」に出てくる「ガラスのクレア」。
あるいは何話かに出て来た「化石化ガス」。
化石化ガスで化石化した人々がズラッと並んでいる光景は、SFファンタジー以外の何だと言うのであろうか。

詩情漂う、今まで観たこともなかったことを、「SF」の魂で描く。
それこそが松本SF作品かな、と思っていた。

それともうひとつ、思春期の頃、松本SF宇宙作品に観られる「人々がいろんな惑星に植民する世界」は、自分にとってはかなりの説得力があった。
80年代は松本作品以外にも、「人類が移植した惑星などでもめごとが起こる」という話が多かった気がするが、それが個人的には「将来はこうなるんだろうなあ」と思わせる強い説得力があったのだ。

書いてて何が何だか分からなくなってきた。
とにかくつらい。
ここで終わりとさせていただきます。

ご冥福をお祈りいたします。

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