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003 「Asia」について

ぼくは自分の作品の名前に”Asia”という言葉を使うことが多い。
たとえば、ぼくが毎日Instagramに投稿している作品は”A Day in Asia”という名前で、ときどきそのバリエーションで名前が変わることもあるが、そのバリエーションとしては、たとえば”Asia with Multi-Standard”という名前になっていて、結局”Asia”という言葉が含まれている。
また、以前書いていたブログは”我が内なるアジア”というもので、こちらは”アジア”とカタカナ表記にはなっているが、要するに”Asia”のことだ。
ぼくはこの”Asia”という言葉をどうして使っているのか、ということをここに書いておきたい。

ぼくにとって”Asia”という言葉は、地理的な意味でのアジアのことを言っているのではなくて、もっと抽象的な、「自己組織化する生命体のようなもの」を指している。それは「生命」と読みかえてもいいし、「都市」と読みかえてもいいと思う。実際、”Asia”という言葉を使う前は”City”という言葉を使っていた。たとえば、今から8年前に創った動画作品、”C(imm)”は、”City (in my mind)”のことで、この”City”を”Asia”と入れ替えると、「わが内なるアジア」になる。「生命のようでもあり、都市のようでもあるもの」のことをぼくはとりあえず”Asia”と名付けている。そして「わが内なるアジア」という言葉にもあるとおり、ぼくの内側には”Asia”がある。

ぼくが毎日Instagramに投稿している”A Day in Asia”は、ぼく書いたプログラムが一日中絵を書いていて、それは一日で300枚以上になるのだが、その中からぼくが毎日一枚選んだものだ。つまり、”Asia of the day”ということなのだが、それを”A Day in Asia”という名前にしている。日本語にすると「アジアでのある一日」ということになる。つまり、このときAsiaはぼくの”内側”にあるのではなく、ぼくがAsiaの中にいることになるのだが、これは単なる言葉遊びで、本来つけるべき”A Day of Asia”(アジアのある一日)という言葉がどうもしっくり来なかったから、どうせならすごく普通の英語に聞こえる”A Day in Asia”にした、といういきさつがある。自分の中にあったり、その中に自分がいたり、とよくわけがわからないものだ。まあ、そもそも自分でも何と呼べばよいのかよくわからないものにとりあえず”Asia”と名付けたところからおかしな話ではあるのだが。

ぼくが”Asia”と呼んでいるものが何なのかがぼくにはまだよくわかっていない。それは「アート」と言えるのか、あるいは「ゲーム」と言えるのかも知れない。あるいは「生命体」と言えるのかも知れないし、「知的意識体」とも思えてくる。また、もうちょっと別の視点で言えば「複雑系」と言うこともできるだろう。とにかくぼくは、”Asia”ととりあえず名付けたこの何ものかを、ぼくができる方法で表現できれば、と思っており、今ぼくにできるもっとも手っ取り早いのがプログラムでAsiaを描く、ということだった。

プログラムで描く限りは、それは幾何学による描画になるはずだが、いかにもプログラムで描いたようないわゆる無機的なものでは、ぼくの内側にあるAsiaを表現することはできない。なので、幾何学ではあっても、いかにも有機的だと思えるようなものを描くことができるような幾何学、たとえばフラクタル幾何学などを使って描いている。
これから先、ぼくがAsiaと呼んでいるものをちゃんとした言葉で説明できる日が来るのかどうかはわからない。別に言葉で説明できなくてもいい、思っている。ただそれをプログラムによって描くなどして、なんとか表現できればいいな、ぐらいには思っているが。

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