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004 「人工知能」について

今では普通に会話の中にも出てくるようになってしまった「人工知能」について。
ぼくは前にも書いたとおり、学生時代はずっと建築学科で人工知能を研究していた。
。。。と、いうのはウソで、今でこそ「人工知能」や「AI」などと言われているが、その中心になっているディープラーニングの元となったニューラルネットワークというものは、当時(いわゆる「第二次AIブーム」)は「人工知能」とは言われていなかった。今ではディープラーニングこそが人工知能、という感じになっているので、ぼくが「人工知能を研究していた」というのはウソではないが、当時「人工知能」という言葉が指していたものは別のものだったと思う。

そのころは明らかに「人工知能」と「ニューラルネット」は分けられていて、ある意味対立していたように思う。ぼくも含むニューラルネットを研究している側からすれば、「人工知能なんてつまらない」と見下していた。そのころ「人工知能」と呼ばれていたものは、例えば「エキスパートシステム」と言って、ある分野のエキスパート(熟練者)の知識をデータベースに乗せて、その知識データベースを元にある問題について自動的に分析して答えを得る、というようなもので、たしかにそれはロジカルにものごとを分析して処理する、というそれまでの伝統的なコンピュータの歴史にのった正統派だったとは思う。たとえば医者の知識データベースを組み込んだシステムに、ある患者を見せて、その患者の状態(体温や血圧、あるいは症状など)から、病名をあて、対処法にたどりつく、と言ったようなもの。
だが、それをこうやって今になって文で書いてみてもやはりつまらない。そこにはプログラムされたもの以上の結果が期待できるような余地はなくて、人間の直感などを再現するようなものでもない。

そして「第三次ブーム」と言われる今回のAIブームでは、第二次AIブームのころに「人工知能」と呼ばれていたものの姿はなく、当時それと対立していたはずのニューラルネットこそが「人工知能」ということになっている。

ニューラルネットについて雑に解説しておくと、人間の脳がものごとを処理する際の脳の動きを模して、コンピュータに同じような処理をさせる、というもので、これによってそれまでのコンピュータ(それこそ「エキスパートシステム」などの)にはできなかったこと、をおこなえるようになった。例えば人間が手で書いた文字を認識する、というのは実は極めて直感的なもので、誰が書いた「あ」という文字であってもコンピュータが正しく「あ」と認識するようにする、というのは難しい問題だった。「人間が書いた文字がこの点とこの点をこの順番に通って、さらにこの点とこの点を。。。という条件を満たした場合、それは『あ』という文字である」というようなロジックをいちいちプログラムに書く必要がある。
一方ニューラルネットについて言えば、色んな人が手書きでかいた数々の「あ」という文字をニューラルネットに見せて、それらを元に「あ」という文字の概念を”学習させる”。ニューラルネットが与えられた手書き文字の「あ」を元に「あ」という文字の概念を学習するまでには繰り返しその学習をする必要がある。そして一旦、ニューラルネットが「あ」という文字の概念を獲得してしまえば、それまでに例として一度も見せなかったはずの手書きの「あ」という文字を見せても、そのニューラルネットはそれを正しく「あ」と認識するのである。これは、ニューラルネットが直感的にものごとを認識する、ということができないだろうか?

ニューラルネットが「人間の直感的な処理に似たような処理をおこなうことができる」という能力は、今ではあらゆるところに応用されている。文字認識に近い例としては顔認識が挙げられる。また、それまで人間がやるしかなかった作業、たとえば車の運転などについてもどんどんAIにとって変わっていこうとしている。

ぼくが、今のAIブームについて何かいいたいことがあるか、といえば、このブームでのAIのあり方、というものがあまりにも実用的なところばかりを目指してしまっているために、どんどん退屈な話になっていないか、ということだ。
本来、人間の「知能」というものを「人工的に」模しようとするものである限りにおいては、まずは「知能とは何か」という問題についてマジメに考える、という当たり前のアプローチがあるはずなのに、世界の盛り上がり方は、「AIによって◯◯ができた」ということをセンセーショナルに取りあげて騒いでいるだけのように見える。結局行き着くところが「これをどう応用できるのだろうか?」であるとか、「この技術によって世界はどう便利になっていくのだろうか?」ということばかりが話題になっていて、そもそも「知識とは何なのか?」というような哲学的な問題がないがしろにされているように思えて仕方がない。AIは本来、工学(あるいは”テクノロジー”)として扱われるべきではなく、まずは科学として扱われるべきなのではないだろうか?言い換えれば、実学としてではなくて「虚学」として。
そういう意味でぼくは、「AIの実用性」や「AIの可能性」、あるいは「ビジネスにどう活かしていくべきか?」ということにはまったく興味がなくて、それよりもむしろ、AIの研究を深めることによって人間の「知能」というものが何なのか、ということを深めていくことのほうがずっと大切なのではないか、と思っている。「役に立たないAI」こそが最も大切なものなのだ、とぼくはずっと思っている。

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