考察や分析ではない「感想」という創作

※Myuk『Black Sheep prod by Guiano』の感想文です。

https://music.apple.com/jp/album/black-sheep/1758012140?i=1758012144

歌は、「今夜私は街の灯を見にゆくわ」という言葉で始まる。上機嫌に街を歩くようなテンポは、音だけじゃない。跳ねるような歌声が語る言葉は何かを求めている。歌詞が続く度にそれが野心的な気持ちを帯びていることが分かる。「言葉遣い」とは、言葉の遣い方をいう言葉だが、ここでは「言葉の所有」に疑問を呈する。「それって本当に自分の言葉を使っている?」という問いは、正しさばかりが求められる昨今で、自己主張の大切さを思い出させてくれる。正しさを求めるのは、現代人が踏むべき運命のように思うことすらある。しかし、正しい言葉を選んだがために、その正しさに自分の言葉が奪われている。それは、言葉の所有とは名ばかりの、正しさの支配下にある制限された言葉の所有である。果たして、そんな正しい言葉を所有する人が、本当に幸せなのかは分からない。

ところが、サビに入るとその野心が歌い出しから漂う不穏感を拭い去ってくれる。そのサビは、静かに始まる。競争社会の中で、分からないなりに自分で作り上げた些細とも思われる意志にはまだ不信感がある。しかし、自分の心の奥底でそれが徐々に強い確信に変わっていくかのように、静かな音の中で力強い詩を紡ぐ。自分の言葉は間違ってない。きっとそうなんだ。一人の夜、確かに自分の言葉を確かめるように。そして、一度口ずさんだその言葉は、ただのモノローグで終わることなく、着実に前へ進む自信へと変わる。そんな言葉たちが自分を照らし始め、踊り出す心はまさに「Dancing tonight」。再び同じ歩調を取り戻し、繰り返される同じフレーズの背景には明るさが広がる。「さぁ 恥をかけ 自分が選んだステップで」という言葉通り、駆け出したその足が止まることはないと言わんばかりのリズムで曲は進む。

「歌うぜ どんなメロディーだって」という歌詞が「空いた穴を埋めようぜ」と歌った『愛の唄』を彷彿とさせるのは、どちらの曲も「はじまりはいつもそこだった」からだ。『愛の唄』には「あなただけに歌っていたい」という願いがある。『Black Sheep』では、「どんなメロディーも歌う」という誓いがある。手に余るほどの愛を与えたいという贅沢な欲望ではなく、欠けた愛を埋めたいという謙虚な優しさがそこにあり、それがすべての始まりである。

そして曲は、「あの子に嫌われてあなたに愛されて歩いてく」と、「あなた」のために続く。嫌われたことが不幸なのか。でも、それ自体は間違いではない。愛されることが幸福なのか。それなのに気分は晴れないのはなぜだろう。正しさに愚弄される中、もがいて手に入れられるものは何だろうという不安が尽きない。歌詞は「後悔」という言葉に焦点が移る。暗闇の中で、自分の感情にどうにかスポットが当たる。「後悔をしないように生きる」なんて言葉があるが、正確には「必ず生まれる後悔の中で、受容できる後悔を選んで生きる」だと思う。その後悔はネガティヴだが、少なくとも自分で選ぶことができる。後悔によって得た喪失感は人を悲観的にすることもあるが、それによって得た学びは楽観的にすることもある。その取捨選択は繰り返される。まさに、吸って吐いていく。生きるためにする呼吸と同じように。

そしてまた正しさとは何かという疑問に戻る。ここで初めて自分の言葉は、誰のものでもなく自分のものだと明言する。また、画面越しに知った言葉でも、正論の追求で得た言葉でもなく。自分と向き合う時間が生まれる夜の孤独には深い味わいがある。だから、恥を恐れぬ強さと自分らしい歩調を得ることができる。そして、「Black Sheep」へと変身する。しかし、孤独な夜によって変身させられているのかもしれない。繰り返すサビは、自分へ言い聞かすための悲しい復唱にも聞こえる。そうして「いい子なんかじゃいれらない」という本心に辿り着く。

ここで曲調が一転する。ラップ調の旋律は、歌声もろとも楽器のように駆け抜けていくが、感情がのった語尾の強調には繊細さがある。この歌声に含まれる吐息には混じり気のない感情がそっくりそのまま反映される。言葉選びに劣らない卓越した表現力がある。そして、さりげなくも多彩な押韻は、反骨精神剥き出しの歌詞へ続く。「愛や才とか分かんない 生きてる意味とかまだしらない」とは、単に無力を嘆いている訳ではない。怠惰や意志薄弱ではない。「まだ」という言葉に希望が隠れている。不確定なものに縋るつもりはないという野心すら感じる。

そして、歌うことが存在証明であると言わんばかりに、歌い続けることを誓う。その証明に意味があるかと問われたら誰にも分からない。本人の言葉を待つことしかできない私たちに突き付けられた回答は、「生きる意味はまだ知らないが 自分のことまだ知らないが 聞こえないな 私は音楽を歌い続け いつか生きた意味知るため」。時々、何のために生まれたのかいつか自分が知る時が来ると待望してしまうが、果たして生きている間に、自分が何をして満足するかを知ることができるのだろうか。自分のことを分からないまま死んでいくことさえあると思う。だが、それに対して分からないと断言する。正しさが言葉を奪うように、生きる目的があると断言してしまうのは、初めから生きる意味を奪うのと同じである。そして、「私は音楽を歌い続け いつか生きた意味知るため」という言葉から、自己探究心が萌す。それは、分からないながらに変化していく自分を見せ続けるという宣言であり、その変化を受け入れ続ける自分との契約でもある。

そして、曲調はロックに変わる。「お前はクズだ」「生きる価値もない」「下手くそ」などが、「誰か」の言葉が自分に突きつけられる。曲中で、正しさの怨念は終始付き纏う。ただ、自らを危険に晒すからこそ、自分の勇気を証明できる。この後に続く言葉は心強い。その心ない言葉に対する答えは、「聞こえないな 私が歌い続ける限り」。決してその「誰か」と戦う姿勢は見せない。あくまで否定はしない。求めているのは競争ではないと歌った『愛の唄』には、「誰かに届く歌を歌いたい だけどそれじゃ届かないな」とある。この歌い続ける姿勢が意味するのは、「誰か」にではなく、まさに「あなた」に届けようとする心の叫びである。

この歌詞の中で希望と失望が入れ混じるのは、決して心の不安定を表している訳ではなく、その二つは不可分だからだ。希望の中に失望があって、失望の中に希望がある。希望のない世界なんてない。失望のない世界なんてない。だからこの歌詞は世界を表している。その世界を突き抜けるかのようにストレートに植え付けられた言葉は、徹頭徹尾を綺麗事で誤魔化した偽りの言葉ではなく、正しさが身動きを制限するようにアルファルトで固められて無機質になった心の土壌を突き破って咲いた花のような言葉となる。

朝日のように昇った燃えるような意志は、暗闇の中に隠れた「Black Sheep」を明るみに出す。また一人、厄介者として世の中に立つ。しかし、その「Black Sheep」は、決して厄介者ではなく、積極的孤独の中で自分のスタイルを確立する勇敢な先駆者である。そんな『Black Sheep』はきっと多くの人に届くと思う。それは、誰しもが心の中に厄介者を潜ませているからだろう。反骨的な言葉が若者のためにあるものではない。どこかで「自分の居場所はここじゃない」「自分の実力はこんなもんじゃない」という思いが消し切れずに、人と馴染めない疎外感、つまり厄介者の心を持つ全ての人を救う。その最前線に立つのがこの『Black Sheep』という曲である。「聴きたいの 言葉ではなく音を」という歌詞の通り、同じ想いを持って集まる「Black Sheep」たちの共鳴を求めている。「Black Sheep」は、決して一人ではない。

「街の灯を見にゆく」という言葉から始まったこの歌詞は、画面上で見られる正論以上に、外の世界にある光が、自己愛を失いつつある「あなた」の陰鬱な魂を確かに灯してくれるというメッセージが含まれている。暗闇に隠れていた本心が、灯りによって顕になった時、本当に自分が所有する言葉を知るのかもしれない。

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