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Mのこと

実家に帰るときは、できるだけ知り合いに会うことがないように、乗車人数の少ない車両を選ぶのが常だった。

知人と偶然に会って、嬉しいと思うことはまずない。誰と会うにも気疲れをしやすい性質のためだ。他人が嫌いというわけではない。人と会うには、できるだけ予定に組み込んでおいて、心の準備をしなければならない。

その日もまた、いつも決めている通り、ホームの真ん中あたりで電車を待っていた。平日の午後。お年寄りか、学生らしい人しか居ないようである。昔の私を知る人は誰もいないだろうと気を緩めていたところに、彼女の姿を見た。

たった四両の電車が停まる小さなホームは、その全体を容易に見通すことができる。何の気なしに見やったエレベータから降りてきた、ベビーカーを押す女性とばっちり目が合ってしまった。Mだった。

驚いた私は思わずその顔をじっと見つめたが、彼女の方からさっと視線を外された。一瞬で強張った表情から、彼女の気持ちは十分に伝わってきた。私だって同じだ。このままずっと、会いたくはなかった。

Mは一切こちらを見ないまま、先頭車両を待つ位置にベビーカーを押して進んだ。

彼女が結婚し、妊娠したという話は共通の友人から聞いていたが、母親となった彼女をこうして自分の目で見る日がくるとは思わなかった。確かにMとは会いたくなかったが、十代の頃の、いちばんの友人とも言える彼女が、こうして年齢を重ねている姿を見るのは感慨深くもあった。彼女はもともと小柄で痩せていたが、歳のせいか、さらに痩せたようであった。

Mとは、中学の三年間同じクラスに在籍していた。(私の認識が間違っていなければ)彼女も私も、スクールカーストの外にいた生徒だった。女子のグループのようなものに片足を突っ込みながら、なんとなくどこにも属することができず、かといって冷遇されることもなく、当たり障りない態度で日々をやり過ごしていた。

お互いに、打ち込むような趣味もなく、部活もなく、元気で活力に満ちた人たちを少し疎ましく思うようなタイプだった。邦ロックと深夜ラジオを聴いて、好きなCDを貸し合って、お笑い番組の感想を言い、何かに傷ついた出来事を打ち明け合った。

中学を卒業し、別々の学校に進学しても関係は続いていた。会う回数は減っていったが、他の友人には言えない悩みや、生きづらいと感じたことを伝えられる、数少ない友人だった。

ただ、あまりに心の裡を話しすぎてしまったのだと思う。彼女は少しずつ、私を気を遣わなくていい相手と認識していった。彼女の遠慮のない態度や失礼な発言が増えていくことにしばらくは我慢していたものの、自分の食い扶持を稼ぐようになって自尊心が芽生えた私は、ある日を堺に、連絡を一切断ってしまったのだった。

Mが一両目の電車に乗り込むのを確認しながら、私はその隣の車両に乗った。視界からMの姿がなくなったことに安堵しながらも、意識は彼女の方に向いたままだった。

座って向かいに見る電車の窓には、駅のロータリーと図書館の姿が映る。幼少期から、家を出る二十代半ばまで、何度も繰り返し見てきたこの画は、何もかもに自信がなかった頃の、なんとも情けない気持ちを思い起こさせた。

卒業式の前日のことだ。私とMは教室で二人きりだった。学校にも、学校の人たちにも思い入れがなかった私達は、やっと卒業を迎えられる嬉しさを確認し合っていた。

黒板には大きな「ありがとう」の文字の周りに、クラスの皆の名前がひらがなで書かれていた。クラスの中心グループの女子たちが書いたもので、そのクラス全員の名前があるべきところに、私の名前だけが無かった。嫌われていたわけでも、いじめられていたわけでもない。ただ単に、彼女たちに思い出されなかったのだ。私は自分の影の薄さについてはよく認識していたので、残念には思ったが、それほど傷つくことはなかった。

「私がいないや」と呟いたのを聞くと、Mは白色のチョークを持ち、丸みのある文字で私の名前を書き足した。振り向いたMは「どうだ」と言わんばかりの得意げな顔で笑っていた。その時私は、彼女のことを、なんて愛らしい人なんだろうと思った。Mが居てくれて良かった。

電車が走り出してすぐ、車内に赤ん坊の泣き声が響き渡った。少し驚いてしまうほどの大きな声だ。私の向かい側に座っていた年配の夫婦は、覗き込むように隣の車両へと視線を向けた。

私も、隣の車両を見たい、と思った。Mの周りにいる人達は、赤ん坊の泣き声を微笑ましく思っているだろうか。それとも、Mは冷たい視線を向けられているのだろうか。じっと耐えながら、赤ん坊を抱いて時間が過ぎるのを待っているのだろうか。もしも、Mの隣に、Mの知り合いがいれば、彼女の気持ちは少しでも紛れるのだろうか。

感受性が強くて、繊細だった彼女は、傷ついてばかりいた。私から見たら羨むような家庭環境であったけれど、高学歴な友人知人に囲まれていた彼女は劣等感が強く、誰かを見下すことでしか自尊心を保てないようであった。

彼女は大学を卒業し、留学したあと教師になったが、ハードな仕事環境についていくことができず、数年でリタイアし、その後職場の同僚と結婚した。「自分にはパートで働くくらいが似合っている」と言っていた彼女は、幸せに過ごしているだろうか。

あのチョーク一本で、私を和ませたMに、今の私は何もできなかった。ただ、時間が早く過ぎればいいなと思いながら、窓の外を流れていく景色を見ていた。

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