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3月の土曜日

「起きた?あのさ、ばあちゃん死んじゃった。だから、今日は会えませーん!ごめん!」

布団の中で電話をとった私は驚きもせず、寝ぼけた声のまま「気をつけてね、ありがとう」と言った。電話を切ってから、何に対してありがとう、なのか、ちゃんと言いそこねたなあ、と思った。連絡をくれたこと、ありがとう。

年末、彼のお祖母さんが肺炎で入院した、と聞いたとき、心の中で私は「もうそろそろだろうな」と思った。痴呆の進行した人が肺炎で入院したら、だいたいがもう、だめなのだということを、私は経験で知っていた。
「大丈夫でしょ〜」と呑気に言う彼に、わたしは時々、「お祖母さんは最近どう?」と尋ねた。「連絡が無いってことは大丈夫ってことだと思う」と彼は答えた。そうであってほしいと願いながら、心の中で私は悲観的だった。

彼は土曜日の朝、群馬にある実家へ帰った。
私は突然、週末に予定のない人になった。

洗濯をして掃除をして、いつも自転車でいく八百屋に歩いて行った。片道20分。年末に越してきたばかりの街は、私にとってはまだまだ見知らぬ場所で、旅行者の気分で歩く。楽しい。

梅がそこら中で咲いている。犬とその飼い主が散歩している。
歩いているうちに体があたたまる。冬が終わって、嬉しい。

大玉キャベツが350円。どうしようかなと悩みに悩んで、キャベツと長ネギと玉ねぎとアスパラを買って帰る。野菜を安く、おいしく、たくさん食べたいよう。

帰って、野菜と、冷凍肉を切って、フライパンにいれて、蒸して、ポン酢をかける。
作りすぎて、お腹が破裂しそうになりながら、ふうふう食べた。

ひとりだなあ、としみじみしていたところに、彼からの連絡があった。と、思ったら、彼の実家の、飼い犬の動画だけが送られてきた。何の言葉も添えられていない。

彼の、お祖母さんに対する気持ちはどれ程のものかは知らない。彼はいつも、真面目な話を避けて通る。朝の電話も、何だかおどけていた。
彼がお祖母さんに帽子をプレゼントして、それを被った写真を私に見せてくれたことがある。ということだけ、私は知っている。

彼が愛している柴犬も、私の記憶ではだいぶ年老いているはずだ。

私は自分の10代から20代にかけてのほとんどを一緒に過ごした、愛猫と、一緒に暮らしていた祖母の死を思い出した。
死んだ、という事実はなんだか未だに現実味がなく、ただ会えないことが寂しい。会いたいなあ、と思って、今も泣くしかない。恋しい。

こういうとき、どうやって声をかければいいのかなあ、とよく分からない。
大事な人を亡くす悲しみは知ってるけど、私はどうしたって彼と全く同じ悲しみを知ることはできない。彼の悲しみは彼のものでしかない。
「お祖母さんも会いに来てくれて喜んでるよ」と、月並みなメッセージを送った。
 
彼からは犬と彼のツーショット画像が送られてきた。

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