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嘉納治五郎と宮本武蔵における「暇」:出世しない、表舞台に出ないことの意義と効用

嘉納治五郎といえば、柔道の祖として有名であるが、それ以外にもオリンピックの委員をやったり政治や実業界とも関わったりとかなり多方面で活動した。

それはそれで嘉納治五郎のずば抜けた能力の賜物であるし、それによって柔道が広く認識されて一躍日本文化を代表するものの一角にすることができた功績がある半面、柔道そのものの理論的深化という点では多くの課題を残してしまったのも事実である。

平たく言えば、柔道を「広める」という点では良かったものの、柔道を「深める」という点では、広めることに伴う多忙さが嘉納治五郎の足を引っ張ったということ。

柔道の真の意味での、それこそ剣の道を超えるほどの理論に至らなかったことが、剣聖は居ても柔聖は居ない、西郷四郎レベルの達人を輩出したものの理論不在であったために後に続かないという、剣の道と同様のレベルダウンの歴史を辿ってしまうことになった。

もちろん他にも様々な要因はあるけれども、嘉納治五郎が自ら編み出した「乱取り」の練習体型を含めて、武道武術としての柔道を一般論レベルでも定義し、理論体系化できなかったことに大きな要因があることは間違いない。

乱取りの論理を生み出せたほどの嘉納治五郎の能力を以てすれば決して不可能事ではなかったはずであるが、残念ながらそういった柔道の理論を深めるには嘉納治五郎はあまりにも多忙過ぎたと言えよう。

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この点で、嘉納治五郎と好対照をなしているのが、流祖・武州玄信公(宮本武蔵)その人である。

というのも、流祖は自著の『五輪書』の冒頭にも書いているとおり、30歳を超えてそれまで(巌流島の決闘まで)の真剣勝負の来歴・経験を顧みて「兵法至極にしてかつにはあらず」ということを悟った(巌流の兵法者(佐々木小次郎)に勝負では勝ったが技では打ち負けたということも、もしかしたら一因だったかもしれない)。

その後「なをもふかき道理を得んと、朝鍛夕練してみれば、をのづから兵法の道にあふ事、我五十歳の比也」とあるとおり、兵法天下一、天下無双の兵法者になってから、さらに20年もの間修行、鍛練を続けて、兵法の道を探究することで、ようやく50歳(現代人の平均寿命で換算すれば80~100歳)にして兵法の悟りを得ることができたとのこと。

ここで「朝鍛夕練」ができたのは、流祖がどこの大名家にも意図的に仕官せずに(仕官せずに生活できる状態を創ることも直接的同一性として成し遂げ)、いわば「暇」な状態=兵法の探究に多くの時間を割ける状態を意図的に創り出したことで、兵法を深化させて捉えることができるようになったということである。

その間は積極的に弟子を取ることもせず、昔から居る少数の高弟や免許皆伝者(水野勝成など)に稽古を付けながら再度自分を鍛え直していった期間だったのではないかと推測される。

その証拠が『兵法書付』と呼ばれる兵法書から50代以降の最初の著作である『兵法三十九箇条』であり、その内容を見比べてみれば、単なる術技(心法を含む)のみならず、あらゆる次元で勝ち残るとはどういうことか、そもそも人間にとって勝負する、そして勝ち負けとは何なのか?という理論的、根本的なところを問う認識が大きく発展しており、それが最終的には『五輪書』において兵法という一語に結実しているのを看取できるはずである。

それはちょうど、南郷先生が『武道修行の道』から『武道講義』に飛躍的に発展する、武道科学のレベルから武道哲学のレベルに発展するのと同様のことが流祖の認識に生じたのではないかと考えられる。

この偉業は全て、流祖が誰の指図も受けずに一日を自由に過ごせるという状態を、流祖自らが意図的に創り出したことに負っている。

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嘉納治五郎と流祖・武州玄信公、好対照な二人の在り方を一言でまとめると、

「入るが栄達の門か。出るが栄光の門か」(吉川英治・著『宮本武蔵』より)

という一言でまとめることができるだろう。

何か自分で極めたいものがあるのであれば、栄達の門=社会で広く活動することは弟子たちでその方面に志のある者たちに任せ、自らは「栄達の門」から出て「栄光の門」を目指すことが大切である。

「栄達の門」で成し遂げたいことも、そちらを志す弟子たちを指導するという形で、しかも理論的に深い指導をすることができるので、「栄光の門」を志向することが回り回って全てを十全に成し遂げることにもつながっていく。

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