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死ぬ権利、生きる権利

舩後氏の意見はわからないでもない。自分は障害があっても立派に生きてきた。だからお前ら辛くても死を選んではならないと言いたいのであろう。

つまりは生きることへの全体主義である。

「生きることは結構なことじゃないか。むしろ人間、死ぬなんてことは見ないようにしよう、考えないようにしよう。人間、不老不死のつもりでいようじゃないか。」と考えてきたのがこの数十年である。

いや、人間、いつかは死ぬのである。死ぬからこそ人間である。

自分の「生」が有限であるからこそ自分の人生をどう生きるか、自分の命の最後をどうするかということについてそれぞれが考えなければならなくなったということであろう。

もちろん、あの2人の医師の行った行為が適切であったのか不適切であったのかを論じるには情報も不十分である。ここではそのことについては述べようもない。

ただ、本人は自分の問題であるから考えて自己決断を行う必要があろう。ここで周囲が「生きよ」というのも「死ね」というのも関係ないわけである。あくまで最終的に自分で考えて自分で決断を行うということが重要であろう。それが自己決定権である。

舩後氏の意見はその意味では「患者の自己決定権」の否定ではないか。つまり「死ぬこと」への全体主義しか否定していないのである。自己決定において「生」への選択しか許さないというのは単なる生の強制であり、それも全体主義に他ならないよ。

もちろん、氏が経験したように同じ境遇の仲間と出会い、「生」を決意したということは何ら否定するつもりはない。是非ぜひ全ての苦しんでいる患者がその機会を得られるように国会議員として尽力して欲しいのである。

その結果、みんなが「生」を選ぶようになったのならそれに越したことはない。

けれども中には「死」を選ぶ人もいるかもしれない。倫理学者たちはその時どうすべきかきちんと考えて欲しいのである。現場に丸投げして知らん顔されるのは困るのである。

これから多くの団塊の世代の人々がこの浮世とおさらばする時代に入ってゆく。その時に思考停止してとにかく延命させろ、心臓の鼓動が打ち終わるのを1分でも1秒でも長くすることが最優先だというならそういう方針も可能である。その代わり、医療費はどんどん高くなってゆくだろうし、本人は様々なチューブや機械を装着されることを我慢しなければならない。

「生きろ」とカッコよく言いたいけれど、医療費が増えるのも困る。その人の最期がうまくいくように主治医が決めろというならば、それは正しくパターナリズムである。

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