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自由と強制

自由というものは尊いものである。そこである個人は生きる選択もできれば死ぬ選択もできる。素晴らしいこともできれば愚かなこともできる。

それを生きる自由は義務にして死ぬ自由は禁止しようという愚かな人が日本には結構存在するようである。

彼らの言い分は、死ぬ自由を認めると周囲の人たち、社会が「貴様死ね」と強制してくるから生きていられないということのようである。

誠にバカらしい考え方である。私はネトウヨだからご立派なサヨク様が「お前みたいなゴキブリのような低級な生命体は早く氏ね、いや、死ね」ってもう数限りなく言われてきたが、「うるせー、そんなの個人の自由だ」と言っておしまいである。これが自由人、自由な社会というものであろう。

他人から死ねと言われたくらいで死ぬようであれば自由人でもなければ自由な社会でもない。もちろんナチスみたいな奴らが政権をとって、「君はT4作戦の該当者だ、さあ、今すぐ強制収容所に行きたまえ」と言ってくるようであればさっさと日本を脱出するよ。

今の所日本はそこまで全体主義を内包してはいない。東京は知らない。東京ではもう人だらけになって、そのストレスから全体主義が堂々と大手を振って歩いているんだよと言われるとまあそういうこともあるかもしれないとも思える。しかし、まだ、ネトウヨ用の強制収容所が建設されてネトウヨどもがどんどん最終処分されているということは聞いたことがない。

もちろん、逆に左派や不法入国でない在日外国人、もしくは障害者たちが強制収容所に収容されているという話も聞かない。

つまりは日本ではそこまで全体主義は機能していない。自由主義者は安心していいわけだ。

けれども、もちろん全体主義の伸長が起こらないように注意する必要があるだろう。それは個人の自由を抑制して善、もしくは左派的な選択を強制することではないよ。むしろ自由な選択を保障するように政府や社会を調整することだろう。

今は高齢者がステークホルダーであるのが日本である。全体主義的な選択は高齢者や高齢者予備軍が自分たちの既得利益を奪われまいとして若年層や他の階層を押さえつけるために行使しているのではないかとしか思えない。

もしくは自由主義者と名乗る人が最初から「自由」と「強制」の意味を取り違えているだけだろう。日本では勉強していない人が多いので、しばしば観察されることである。


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