自己決定の意味とは

こういうのは何かカッコいいことを言ったつもりなのだろうけれど、不治の病にかかった患者が「もう死にたい」といった時にどうするつもりなのだろう。

患者の自己判断を究極的に尊重するなら、「もう絶望した。これ以上生きていたくない」と死を真剣に求める患者には毒薬を出さざるを得ないことになると思うよ。

そりゃ「生きてりゃいいこともあるよ」と医師は言うことができるけれど、患者が「そんなことは百も承知だ。でももうこの動かせない体は戻らない。」といった時に日本では詰むよ。今の日本でできることは消極的安楽死、つまり積極的な延命治療の差し控えということだけなので、苦しみは却って延びることもあるんじゃないかな。

そこで「アーアーキコエナイ。映画だったらそこで奇跡的な回復が起こるはずなので一つよろしく頼む」と言われてもない袖は振ることができないのである。

ワクチンだって、そりゃ拒否することは簡単である。けれども、ワクチンを接種しなかった結果、感染で命の危険に晒された時に「自分の判断だから」と全てを受け入れられるのだろうか。うまくいった場合にはリテラシーとか偉そうに言えるかもしれないが、うまくゆかなかった場合にその運命を受け入れられるかどうかが重要だよ。確率という時にはうまくいかないことが含まれる。

例えばHPVワクチンだってワクチン反対派は諸悪の根源のような言い方をしているかもしれないが、子宮頚がんは20代、30代に発症するのである。実際、AYAの発がんの一定の割合は子宮頸がんであろう。

発がんもせずのほほんと人生を送って行くつもりが子宮頸がんを発症してしまった場合に、「時間を巻き戻してやり直したい。あの時ワクチンを打っていたならなあ」と言ってもそれは叶わないというのが人生であり、患者の自己決定権の尊重というのはその決断を自分の責任で行うという態度である。

日本ではマスコミも「うまくいく方」しか紹介しないからみんな「自分の人生はうまくゆくから医師など蹴飛ばしておけばよい」と傲慢に思い上がるけれども、実際にはうまくいかなくなる事例もあちこちにあって、リテラシーとはその「うまくいかない場合」にも意識をして自分がどう判断するかということが重要になる。それが自己決定ということではないか。

ハリウッドの映画では主人公だけはどんな危機が起こったとしても最後まで無事に生き残るけれども、現実世界の主人公「あなた」の場合にはそうなるとは限らないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?