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書き連ねることしかできない。

代わり映えのしない新型感染症関連ニュースが延々と流れている感じがする、そんな日々において。「正確な情報を今こそ」というかのごとく、日々微妙かつ重大に変化していく情報がテレビを、新聞を、ネット上を駆け巡っている。

そんないつもとは少し違うの真っ只中を生きているけれど、家にいることしかできない、そんな無責任な学生のとりとめもない思いをひっそりと残しておこうかなと思った次第です。

私の家はNHKを好んで見るから、朝のニュースとお昼のニュースと夕方のニュースと夜のニュースと。ほとんど同じ内容の繰り返しなのに大切だよなあとか思いながら見ている。多くの飲食店や小さなお店が打撃を受けていることを伝えながらも、最後はキャスターが「なるべく家にいてください」と切迫した表情で訴える。

どちらも現実で、伝えるべきことではあるんだけど、矛盾しているよなあ。きっと伝える側も届けるべきメッセージが定まってないのかもしれない。もしくは伝えるべき側面がありすぎるのかもしれないけれど、国営放送はあり大抵の言葉でまとめなければいけないのかもしれない。難しいね。


民放の情報番組もたまに見る。評論家の人々は毎日毎日、この手のニュースに関してたぶん、真剣に議論をしている。すごいと思います本当に。

声を上げるということはその分批判やご指摘もあるわけで。なおかつステイホームなご時世で、マスクもつけずにスタジオで意見を交わすなんて、言ってしまえば命がけの範疇だ。それでも結果の成否は未知数だけど、所得が激減している人への補償の仕組みや検査体制の充実など、きっと彼らが訴えたことによって改善した事実は必ずある。もちろん感情論になってしまう瞬間はあんまり見たくないけれど。あと驕り高ぶっているのは好きではないけれど。

でも批評家は意見を言う人だし、そういう人だと了解してテレビを見ているわけで、彼らに対してさらに批判しないでほしいなと思う私はぬるいのだろうか。


新聞は昔から好きだ。だから新聞学科とかいうちょっと珍しい学科でジャーナリズムのなんたるやを学んでいる。数年前に比べて明らかに薄くなった紙面をめくりながら、遠い遠い世界を考える。

日本がしょうもなく思えるほどにある国における対策は進んでいたり、逆に日本で良かったと思えるほどにある国の状況は深刻化していたり。あとは、政府や官僚がこんなことを考えているよみたいな、政治的力学が垣間見えてモヤモヤもする。もちろん人命最優先で動いてくれていると思いたいけれど、きっと彼らは守るべきものがいくつかあって、その中で絶え間なく決断を下しているから妥協の産物とか言われてしまうんだろうな。誰よりもどこよりも頭をフル回転して頑張ってくれているはずで、その気力体力精神力が、本当に守るべきただ一つのために使われたらいいのになとか、呑気なことを祈る。


もう一つ愛してやまないメディア、今は自粛の流れの中に否応無しに飲み込まれているけど、映画が好きです。特にミニシアターが苦境に立たされているのは周知の事実で、#Save The Cinemaにも賛同してみたり、好きな映画館のオンラインショップでお買い物してみたりしたけれど、苦しいな。

ミニシアターという名の表現の場は失われてはならないぞと、声高く叫べる強さがあればいいのだけど、同じようにまさしく存続の危機、みたいなコミュニティはたくさんあって。いつか再建する余地さえ残さないほどにゼロになってしまったらどうしよう、どうするんだろうな人々は。


なんでこんなくだらないことしか書けないんだろう。

なんで私は何もできないんだろう。

つまりは、そういうことです。別に権力監視能力として如何なのとか、そんな毎日辛いニュースをガチャガチャと伝えるなよ、なんて思ってない。ただ私はこうやって家で何かを書き連ねる、ということでしか今と接点を持てない感じがなんだかフラストレーションなんだ。。


学生の本分は学業だから、今まで挑戦できなかった哲学の本を読んだり、世界史を学び直したり、オートしか使ってこなかった一眼レフの基礎を勉強してみたり。実はこんなご時世になる前から今年の春休みの目標はのんびりと自分のために勉強することだったから、そうやって毎日なんだか楽しく充実して過ごしているけれど。

世の中の痛みに対して、自分なりに闘うことすらできない。

一緒の時代に生きているのに、こっそりと考えを書き連ねることしかできない。

何も守るべきものなんてない、所詮学生。

ぐはーつくづくモラトリアムだ、ほんとに。


こういう時こそ、ジャーナリズムの役割ってなんぞや、みたいな気持ちがムクムクとしていて。きっとどの現場も定まらない正義に揺れ動いていて、そういう迷いを隠す余裕がないように見えて。私の憧れているジャーナリズムの在り方は、そうやって迷いながらもそれを隠し通せる人だから。怒りや恐怖や焦りに侵されずに本質を捉えようとする営みが、報道と名乗れるものだと私は信じているから。


何ができますか、ね。


とりあえず近所を散歩して見つけた春の写真を。

ああ、命の重さがまだ遠いなあ。だって今がそんなに辛くないのだもの。死との距離感については、またちょっとずつ考えようなあ自分。暗くなりすぎない程度に。


おわり。

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