生きづらさを知ること
家のすぐ近くで、何人かがスケボをしながらたむろしているのを目にすることが多くなった。この辺でも珍しい光景ではなかったけれど、緊急事態宣言が出たあたりから毎日決まって同じ場所にいるから、ちょっとやだなあと思っていた。
もしかしたら小中学校の同級生か、もっと若いくらいかもしれない。この前はコンビニのゴミをそのまま放置していたりして、閑静な住宅街には不似合いな、ちょっとしたヤンキーみたいに見えた。
ガラ悪い人たちには近寄りたくないし、近寄らない方がいい。
みんなが自粛している中で集まったりして自分勝手だな。
そんなふうに冷ややかな目を彼らに向けていた。
でも、もっともな倫理観とか、正しさとか。
そういうのをかざしていいのかわからない気持ちに襲われた。
仮設の映画館で、「プリズンサークル」を見た。
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この映画は、初めて日本の刑務所にカメラを入れたドキュメンタリー作品だという。
刑務所が舞台ではあるけれども、刑務所についての映画ではありません。
犯罪者と呼ばれる人が主人公ですが、彼らだけの話ではありません。
他者の本音に耳を傾けることで、言葉を、感情を、人生を取り戻していく。
彼らも、私たちも、そこからしか出発できない。
犯罪をめぐる、四半世紀あまりの取材を通して実感してきたことです。
彼らの言葉に、じっと耳を傾けてみてください。
今まで見えなかった何かが、見えてくるはずです。(監督メッセージ)
取材許可まで6年、そして2年にわたる取材の記録は、彼らを「犯罪者」「受刑者」と一括りにしてしまうのがためらわれるほどの、人間の営みの記録だった。
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詐欺、窃盗、致死障害。
社会的に許されることのない罪を犯した人々が、虐待やいじめといった、社会的に許されてはいけない、それぞれの苦しみの中に生きてきたのだとわかる。
近しい苦しみを抱えた人々が、対話を繰り返しながら何かを(取り戻すというよりは)初めて知っていく姿は、誤解を恐れずに言えば、何も珍しくない。人々のつながりにおけるありふれた光景のようにも思えた。
そしてわたしも、彼らのうちの誰かの、どこかに接点があってもおかしくないと思った。
もちろん、到底理解しがたい思想を持って犯罪を犯す人もいるのかもしれないけれど。第三者として、最初から理解できない気持ちを掲げるのは違うような。
それくらい身近なところに、苦しみの種は潜んでいると思った。
生きづらさは個人の、環境の、そして社会の問題でもある。
誰かの生きづらさを知ることは、個人の問題を相対化し、環境を改善し、社会を変える連鎖を生み出すことだってある。
というのは、きれいごとかな。
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スケボの彼らに抱く不信感は、どこから生まれてきたのだろう。
人に危害を与えるわけでもないし、うるさくもない、屋外だから声を大にして咎めるほどでもない。ただのレッテル?それならとりあえずは取り下げよう。まあ、ゴミ放置はよくないと思うけれど。
そういう固定観念とか、悪者扱いとか、正義気取りとか。
それがいちばん生きづらさを生み出しているんじゃないかしら。
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