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21.沖縄の古墓(掘込墓・亀甲墓)と横穴式石室墳~地域と時代を超えた共通性~

  沖縄の墓についての記憶が覚めないうちに、地域や時代が大きく違うが、古墓と呼ばれる掘込墓・亀甲墓と古墳、とりわけ機能的に共通する横穴式石室墳について、思うところを記してみたい。

掘込墓群(丘陵崖面を掘り込む)

①造営時期:古墳(横穴式石室墳)が約1100年ほど古い。
  掘込墓・亀甲墓:造営時期17世紀代~
  古墳(横穴式石室):造営時期6世紀代~(近畿圏に限る) 
②立地条件:丘陵斜面地、平地にはない。
  掘込墓・亀甲墓:丘陵斜面地、平地や畑地にはない。
  古墳(横穴式石室):丘陵斜面地、平地にも単独である。
③墳丘:盛土の有無。
  掘込墓・亀甲墓:盛土なし。
  古墳(横穴式石室):盛土あり。(3m以上)
④埋葬施設:石材の使用の有無。
  掘込墓・亀甲墓:岩盤を掘り込む。シルヒラシ・4~5段の棚
  古墳(横穴式石室):巨石で空間をつくる。
⑤空間原理:遺体の風化場所、改葬、納骨堂としての共通的機能。
  掘込墓・亀甲墓:シルヒラシ(遺体の風葬場所)
  古墳(横穴式石室):石室内の棺配置場所
⑥改葬後の納骨方法:骨化された遺体は片付け(集骨)される。
  掘込墓・亀甲墓:骨化⇒洗骨⇒厨子甕に納骨
  古墳(横穴式石室):棺⇒風化⇒骨化⇒一カ所に集められる。

横穴式石室墳(入口から奥壁を見る)

 ここで共通している点は、墓室つまり石室という埋葬施設(空間)と儀礼的なものである。まず第一に火葬ではないこと。被葬者を納棺し墓室(石室)に安置する。沖縄の場合、遺体安置場所はシルヒラシとして特定の場所が決められているが、古墳(横穴式石室)の場合は特に決められた場所はないようだ。むしろ石室には左と右に袖石をもつ両袖式と、どちらか一方にある片袖式、どちらにも袖がない無袖式の3パターンとなるが、無袖式は時代が下がり概ね7世紀代に多くなる傾向とのことである。すなわち棺は袖部分に寄せられた状況で安置される。(入口から見えない。)被葬者が一人と思われる巨大な古墳の場合、墓室の中央に安置されるがこれも決まったものではない。空間内で遺体が風化する状況は共通している。そして、墓が家族墓的なもの、沖縄でいう門中墓という点も共通していると言えるだろう。大阪府東大阪市の山畑古墳群内にある大藪古墳では、何と遺体が11体(男性7,女性4)も検出されている。一斉に11体が埋葬された様なことは考えられないが土器の形式(時期)差が余りないので、長期間ではない家族墓であると考えられている。

黄泉の国の入口

 『古事記』の一節に黄泉国(よみのくに)という記載がある。現代語訳はこうだ、
 女神イザナミノミコトは出雲と伯耆の国境の山に葬られた。男神イザナギノミコトは女神イザナミノミコトに会いたいと思い、後を追って黄泉国を訪れた。イザナギノミコトが「いとしきわか妻よ、私とあなたと作った国は、まだ作り終えていない、だから現世に戻りなさい。」と。イザナミノミコトは「残念なことですが、私は黄泉国の食物を食べてしまって戻れません。しかし、黄泉国の神に相談してみます。その間は私の姿を見てはいけません。」と申した。がしばらく待っても戻ってこない。イザナギノミコトは待ちきれなくなって、左の御角髪(みずら)に挿していた爪櫛の太い歯の一本を折りこれに火を灯して御殿の中に入ると…イザナミノミコトの身体には蛆がたかり、ごろごろと鳴って、頭は大雷(おおいかずち)がおり、胸には火雷(ほのいかずち)がおり、腹には黒雷(くろいかずち)がおり、陰部には析雷(さくいかずち)がおり、左手には若雷(わかいかずち)がおり、右手には土雷(つちいかずち)がおり、左足には鳴雷(なるいかずち)がおり、右足には伏雷(ふすいかずち)がおり、合わせて八神の雷神が成り出でていた。それをみたイザナギノミコトは驚き恐れ逃げ帰った。という話である。    これは何を表現したものであるかはお分かりであろう。横穴式石室内の生々しい実態そのものである。横穴式石室墳は納棺・納骨場である玄室(げんしつ)と通路である羨道(せんどう)で構成され、入口は石材(閉塞石)で塞がれているが、石材はいつでも(埋葬があれば)外すことが可能である。つまりイザナギノミコトは未だ外してはいけない閉塞石を一定期間(風葬の期間、骨化となっていない期間)待たず開けてしまった。そこはグロテスクな世界が広がっており驚いて石室から逃げたという訳だ。これは沖縄の墓にも共通するものである。肉体が朽ち果て骨化するまで3年以上、あるいは10年程度の期間が必要だという。その間に亡くなる人物が生じると、その状況を目の当たりにすることになる。その場合、どうするのであろうか?
 いずれにしても、時代や地域を経て、墓のあり方を考える時に共通性をもつものとして、沖縄の古墓と横穴式石室墳を取り上げてみた。だから何なのか?という問いもあると思うが、本土の古墳時代(後期)に行われた葬送儀礼が1100年も経て沖縄の地で続けられていることの事実は、無縁ではない歴史の有縁性を感じるのである。これは自身の感覚的な記述であり、学問的には全く成立しないものであることを付け加えておく。


 

  yお

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