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河内飛鳥の渡来(ブルジョア)人墓~オーコ8号墳~

 その古墳は大阪府羽曳野市飛鳥のブドウ畑が広がる尾根の中腹(標高176m)緩斜面上にある。夏期に古墳を目指したが、周辺は草木が生い茂り、尾根頂上にも辿り着けず断念した経験をもつ。見学するのであればブドウの収穫が終わった後、やはり冬期に限る。地理的条件から簡単に見学できる古墳ではないことを記しておくが、それゆえに是非とも訪れていただきたい古墳でもある。

オーコ8号墳正面(北から)

 飛鳥千塚という古墳群のオーコ支群、登録番号第8番目の古墳(8号墳)である。オーコという風変わりな名称の由来はわからない、しかしこの丘陵尾根上に現在13基の古墳が、かつては34基もの古墳が存在したらしい。なかでも当古墳は最大規模(全長6.75m)かつ石室(槨)の残りが良いものとして著名だ。

石槨内部を見る(北から)

 この古墳は終末期古墳という時期の特徴的な石室形態をもつ。つまり横穴式石室ではなく横口式石槨というものだ。その違いは遺骸を納める場所「玄室」に人が立って楽に入ることのできる部屋(室)であるか否かということである。横穴式石室の玄室は開口部から羨道という道を通過して部屋にはいる際には天井が高く築かれている。一方横口式石槨は羨道部から入ると玄室は棺を横から安置する以外スペースがない。つまり極端に狭くなっているのだ。まとめると
①横穴式石室⇒羨道幅<玄室幅・天井高い
②横口式石槨⇒羨道(前室)幅>石槨幅・天井低い*底石が存在
ということになる。上写真は石槨内部で、奥行長さ190㎝×幅76㎝×高さ60㎝である。よく見ると天井は「⌒」屋根形をしているのがわかる。この内部に棺が入れられていた訳だが、既に無く空洞だ。要するに棺が1棺しか入らない施設なのである。(単葬墓という。)

内部から外を見る(北から)

 上写真は内部から振り返って南方向入口を見たものである。上の石(天井石)がある部分が前室、左右の石材が内側に傾き、天井石の無い部分を羨道と呼んでいる。つまりこの写真は前室部分である。床面は石槨部分から一段下がる構造であるが、ご覧の様に土に覆われており床面部分はどのような状況なのか不明である。写真左(東)側の石材は7石、右(西)側6石、天井石3石で構成されている。前室の幅が約150㎝あり、数名の人物は入室可能であるため棺を搬入後、墓室内での儀礼は可能なスペースと思われる。

石槨部分(南から)
手前1石目の天井石下面の溝(下方から)

 上写真は入口から石槨を見た状況である。ここから棺を搬入したのだ。(現在の火葬場の焼却炉を彷彿させる。)これは横口式石槨の特徴がよく観察できるもので、前室より一段高く底石が設置されている。
 下写真は入口から最初にある天井石の底面(下面)を写したものである。幅約1㎝、深さ約1.1㎝の溝が彫り込まれているのがわかる。これは扉石をはめ込んだものと考えられているが、それは誤りで、雨が外部から石槨内に入り込むことを防ぐ雨落ちの溝である可能性が高い。そうなると天井石は前方に少なくとも1石は存在した可能性が考えられるのではないだろうか。

入口から石槨部遠景(南から)
斜めに加工された石材(南から)

 この古墳の特徴は、下写真の入口左右の斜めに加工された石材であろう。古墳の盛り土が無くなっているが、完成時はこの加工石材に合わせて斜めに土が盛られていたと思われる。高さはどれ位あったのだろうか。人里離れた丘陵尾根の上で石材を加工し墳丘を盛って築造した集団や、その人物は一体何者だったのか。丘陵周辺は高い樹木に覆われ前方の景色は全く見えないが、これらを伐採すれば素晴らしい眺望が開けてことは木々の隙間から理解できる。適当にこの場所を選んだとは到底思えない。何らかの条件、思想が合致して厳選された場所だったのだろう。出土遺物も少ないが7世紀中頃の築造時期であるというが不確定だ。これまでとは異なる石室構造で造営された古墳、我が国の自生で発明されたものではあるまい。周辺地域は飛鳥という地名をもち、また渡来人が多く住んでいたという伝承もある。葬られた人物は、これまで複数人を埋葬できた横穴式石室とは違い、極めて限定された(恐らく一人だけの)古墳を築造できた、厳選された人物であった。名もなき人物ではあるが、海を渡って来られた異国の先進技術を携えた人物、すなわち渡来人かつブルジョア層の姿が目に浮かぶが、いかがであろうか。




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