見出し画像

時は繋がると信じて

>動き出せ 針を回せ

色々なことに疲れていても、ふと頭によぎる。
もう何もしたくないと思いながら、なんとなくそのフレーズを口ずさむ。

>次の君に繋がれ

そうだ、まだ動ける。
とにかく身体を動かそう、そして次へ進もう。

そこにどんな未来があるかは、分からないけど。



星野源の「時よ」という曲がある。
私の勝負曲というハッシュタグを見たとき、ふとその曲が浮かんだ。
特に気合を入れて聴くようにしている訳ではない。
むしろ、気がつけばその曲に背中を押されているような感じだ。

曲中に「子供」「赤子」という言葉が出てくる。
…とある手続きに奔走しながらも「時よ」を口ずさみ、ふと自分の幼少期を思い出す。

父に懐いていた私だが、残念ながら父親は帰りの遅いセールスマンだった。
しかもそう子供と遊ぶわけでもなく、おまけに無口だった。
おかげで日常の記憶というのはあまり多く残っていない。
はっきり残っている記憶は、日曜日に作ってくれるコーヒー牛乳のことだ。
父はドリップしたコーヒーを愛飲していたが、私は苦いものが大嫌いだった。
それでも父が飲んでいるその真っ黒な液体が美味しそうに見えて、一度だけ飲ませてもらったことがあった。
もちろん、飲んだ瞬間に「なにこれ、美味しくない!」とマグカップを付き返した。
自分からもらっておいて、全く酷い話だ。
けど父はそのコーヒーを牛乳で薄めて、さらにグラニュー糖を1杯入れて、私に飲ませてくれた。
ちょっと得意げに、微笑みながら。

ただのドリップコーヒーから作るそれは、今思えば薄すぎるできそこないのカフェオレだった。
けど当時の私にとって、それは父からもらう「大人の特別メニュー」だった。
もう少しお砂糖入れたいなあと思いながらも、私は日曜日になるとそれを父親にねだった。
父も面倒がらずに、その薄いカフェオレをいつも作ってくれた。

…ふと、現実に戻される。
説明を聞きながら「そんなこともあったなあ」と思わず苦笑する。
マスクがあってよかった、そんな突然の笑みは誰にも見られなかったのだから。
後でその話を覚えているか、父に聞いてみよう。

>時よ 僕ら乗せて
>続いてく 意味もなく

この渦中で、本当にままならないことが多くある。
何度もその壁にぶつかり、そして打ちひしがれた。
なんで、どうしてと叫んでも、その状況は変わらない。
その最たるものは、ずっと父に会うことができなかったことだ。
けど、全ての人が距離を取り、未曾有の恐怖に立ち向かわなければならない。
それは私にとっても、父にとっても同じことだった。
そうして、私は父に会えずにいた。

その期間は、6か月にも及んだ。



>バイバイ 心から あふる想い

父に会えなくても、時間は過ぎていった。
その間にも日常は容赦なくやってきて、私は生活をしなければならなかった。
「仕方ない」「どうにもならない」と言い訳をしながら。
けど、正直なところ、私だって叫びたかった。
こんなのどうかしている、父に会わせてくれ、理不尽すぎる、そうやって駄々をこねたかった。

けど、私はそれを全部飲み込んだ。
言ったところで誰のメリットにもならない。
ましてや叫ぶことによってこの理不尽が消える訳でもない。
だから、淡々と、事務的に、その日々を過ごしていった。

>走り出せ 汗を流せ
>明日の朝に繋がれ

…ようやく、父に会える。
その瞬間は刻々と迫っていた。
とりあえず鬱々とした闇を抜けて、ようやく明日は来た。

けど…それは決して望んだ朝ではなかった。



父は、寝ていた。
医者の話だともう自力で食事をすることもができず、明日から点滴で栄養を取るそうだ。
父の目は虚空を見つめていた。

父はまだ60代だが、認知症を患っていた。
しかもよく耳にするアルツハイマー型ではなく、性格の変化や異常行動から始まり、どんどん心も身体も動かなくなっていくものだった。
主治医は「心も身体もやる気を失っていき、最終的には臓器すらもやる気を失い、最終的には死に至る」と説明してくれた。
そしてこの渦中が襲いかかる少し前までは、父はまだ辛うじて会話ができていた。

この6か月で父は動くこともできなくなり、今は食事すらもできない。
その間に家族は面会することもできず、ただ父を想うことしかできなかった。
こんな不条理があるだろうか。
失われていく父に声をかけ、話をすることがなぜ叶わなかったのか。

もちろん、頭では理解している。
症状の出た早い時期にその都度対応してきたと思っているし、家族も、そしてケースワーカーさんや病院、施設も本当に親身になって対応してくれた。
おかげで在宅からショートステイ、そして施設入所とかなりスムーズに移行できた。
その御恩があるのだから、私もできる限り施設や病院と話をしてきた。
だからこそ面会も我慢してきたし、できる限り冷静に対応してきた。
人に恵まれ、その時できる最大級の対応ができた。
そこに関してだけは自信があった。
そして何よりも、この状況は予想されていたことだった。
いずれか臓器までも動かなくなるのだ、と。

面会が許されたのも、結局は「残った時間がわずか」だという理由だった。



>バイバイ 心から あふる想い

酸素マスクを装着し、やせ細った父がそこにいた。
その目は虚空を見つめていた。
父に意識があるのかは、もう分からない。
身体的な反応はほとんど無く、ただ目を開いたまま寝ているだけだった。

おとうさん、来たよ。

コーヒー牛乳のこと、覚えてる?

またおとうさんのコーヒー牛乳、飲みたいな。

届かない言葉。
もうただの自己満足でしかないけど、来たことを伝えたかった。



その瞬間、ほんの少しだけ、父の目が動いた。


>時よ いつか降りる
>その時には
>バイバイ

父の入院はまだ続いている。
もう施設には戻れないし、看取る覚悟もできた。

誰にでもこの時間から降りる時が来る。
その時間がいつなのかは、誰にも分からない。
けれどもこの想いを抱えて、生きていく人はまた走り出さなければならない。
そんな時にこの「時よ」が、へこたれそうな私の背中を押してくれるのだ。

来年には、父の孫が結婚する。
そうやって、きっと父の時間は繋がっていく。
たくさんの人にバトンタッチしながら、父とのたくさんの思い出を、父と話した沢山の言葉を繋いでいこう。
できることはもう限られているけど、その時間を走ろう。

「時よ」を口ずさみながら。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?