最近のネットが「つまらなくなった」を通り越して「第二現実」と化していると思う理由

私は二十代前半だが、小さい頃からインターネットの世界に浸ってきた身として、今のインターネットはつまらない、という声には非常に共感できる。 

何気ない匿名掲示板のやり取りや、個人サイトの巡回をしていたころは楽しかったが、2010年代に入った頃からインターネットの一般化、検索エンジンありきのWeb、それに伴うSEO対策によるサイトのコンテンツの汎化、さらにSNSの登場によるコンテンツの質の悪化などでインターネットはつまらなくなった。とくに商業化の流れはインターネットの面白さを完全に破壊したと言って良い。

年々プラットフォームの利用規約が厳しくなり、各国によるサイバー攻撃や世論工作合戦などが激化し戦場と化しつつある今のインターネットはもはや、現実逃避のための仮想空間ではなく「第二現実」と化してしまったと言える。

デジタル社会では結局民主主義も自分で規制を強化してしまう

インターネット問題は、それがどんな場所、時間の情報も一緒くたにしてしまうことだ。ニュースサイトを見れば地球の反対側の国がどうなっているかとか、どこの国で戦争が起こっているかとかがわかる。アーカーイブサイトを見れば昔の情報を得られる。自分が興味もないのもまで目につくようになる。見たくない情報を見て過剰反応し、嫌な気持ちになる。

つまり、インターネットでは「住み分け」が極めて困難なのだ。

そしてその「見たくない情報」を排除するためにあれは規制するべきだ、これは規制しなくてはならないとSNSで無意味な押し問答を繰り返し、政治家が人気取りのために目を付け、国会でそれを議題に挙げる等という愚行に陥る。これは言論の自由が認められる民主主義だからこそ起こるジレンマだろう。

法律が整備され、プラットフォームのモデレーションコストや個人情報を守るためのセキュリティの必要性からネットビジネスへの参入障壁は上がった。インターネットは自由な文化の旗振り役ではなくなった。むしろ今のインターネットはユーザーが限られたプラットフォームだけを使うようになり、より中央集権的になっている。

この「住み分けができないインターネット」について考えて思い出したのが、旧約聖書のバベルの塔の話だ。

人間は元々一つの共通言語を使っていたが、人間がバベルの塔を建てた結果、神が人間が浅知恵を働かせてこのようなことをしないようにと言語を分断し、結果、人間が異なる種類の様々な言語を使うようにさせられたという話だ。

なんでも一緒くたにしまえば良いわけではないという点では、この話に通じるものがある。もしかすると神様は、人間が共通の言語使っていることでいがみ合っているから、言語を分断して争わないようにしたのではないかとさえ思える。

今や機械翻訳で価値観や文化の違う国の言語も翻訳して理解することができるが、私たちはこの「バベルの塔」の世界に近づいているのではないかと思う。

インターネットでは有意義な議論は行われず、多数決だけが行われる

議論を行うためにはまず共通の前提を持つことが必要だ。しかし、立場の全く異なる不特定多数の人たちがインターネット上で「議論」をしようとしたところで、そもそも前提の共有や価値観の共有ができず、相手を言い負かすことを論理と履き違えた人によりまともな話し合いにならないことが多い。匿名ならなおさら、ただの煽り合いになる。

しかし、まともに議論はできなくても、「いいね!」ボタンを押したりYoutubeで高評価ボタンを押したりすることはできる。それによってコンテンツの価値が決められる。

つまり、インターネットではまともな議論は行われないが、多数決は行われる。

この多数決主義の危うさは、愚衆政治という言葉あることからも明らかだ。まともな議論が行われず多数決だけが行われるのは、個人がなにも考えず安直に判断して行動しているようなものだ。

つまらくなったインターネットの代替:「第一現実」

今年に入って私は、オフラインの生活をより豊かなものにしようと努力し始めた。

興味のある分野の紙書籍を買ったり、散歩に出掛ける習慣を付けたり、デジタルデトックス用のアプリを使ってスマホ自体を使えないようにするなどの工夫をしてきた。

そうして感じたのは私たちにとって生まれたときからともにある「第一現実」の大切さと、インターネットが自分の世界のすべてであることの危うさだった。

デジタル社会ではテクノロジーと適切な距離をとり、人間の力でやるべき部分は人間の力でやることが大切だと思う。

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