見出し画像

西山さんからもらった少年マガジンを捨てられて、ゴミ箱がボコボコになるくらい泣いた話

昨日、父の入院に付き添いました。
父は病気ひとつない非常に元気な人間でしたが、このたび尿管がんが発見され、片側の腎臓切除手術を行うことになったので、その為の入院です。

父は本当に元気な人間で、そんな父の特性が私のマンガへの執着を深いものにしました。今回はそんな家族の話を書こうと思います。

西山さんと少年マガジン

いま川崎市岡本太郎美術館で、週刊少年ジャンプを500冊程ばらまいた作品を展示しています。

作品の中を歩けます

そこで「なぜ少年ジャンプを作品にしたんですか、お好きなんですか」
とよく聞かれます。

今回の作品をジャンプで統一したのは、日本のマンガ雑誌文化の象徴としてふさわしいタイトルだからです。

私は1979年生まれで、週刊少年ジャンプの発行部数が653万部のギネスを記録した1994年の時に15歳の中学三年生。
空気を吸うようにジャンプを読んでいた世代なのでもちろん思い入れはたくさんあるのですが、本当の所を言うと、当時一番熱心に読んでいたのは週刊少年マガジンです。
(ちなみに私は文章を書く時、一般的な三点リーダ(…)ではなく二点リーダ(・・)を使うのですが、それはマガジンで育ったからです・・・・
この話はまた今度・・・・・・・・)

小学5年生の時に通っていた早稲田アカデミー石神井公園校で、中学2年生のクラスに同級生のお兄さんである西山さんという先輩がいたのですが、
その西山さんと私は、ふとしたきっかけから「今マガジンがアツい」という話で意気投合しました。
西山さんはちょっと不良っぽくてシュッとしていて近寄りがたいタイプで、さえない小学生の私と話す機会がどこにあったのか全く思い出せないのですが、「こいつはマガジンの良さが分かる奴」と西山さんに認定された私はそれから毎週木曜日の夜に、西山さんから読み終わったマガジンを譲ってもらえるようになりました。

授業を終えて自転車置き場に出ると、西山さんのイケてるシュッとしたチャリがいつも壁際に無造作に立てかけてあります。その前カゴの中に西山さんが放り込んでおいた少年マガジンが入っていて、私がそれを回収するシステムでした。
アマゾンの置き配システムを相当先取りしていたようです。流石西山さん。

毎週ただで本をもらえる喜びと、シュッとしている大人の西山さんに認められた嬉しさから、私はもらったマガジンを捨てずにとっておくようになりました。

少年マガジンを通した西山さんとの交流は、ほどなくして西山さんが塾を辞めたことで途絶えたのですが、私がマガジンを捨てられない癖は卒業後もずっと残りました。

この頃から少年マガジンは大ヒット作品を連発し始めます。
当時始まった連載は「はじめの一歩」「金田一少年の事件簿」「特攻の拓」「将太の寿司」「BOYS BE…」など。
その勢いは衰えを知らず、私が高2だった1997年にはとうとうジャンプを抜き、発行部数首位となりました。

展示しているジャンプの山の中に一冊だけ混じっていた1995年12号のマガジン。
「Let’sぬぷぬぷっ」なつかしいです


小学生時代、周りはジャンプばかり読んでいて寂しかったです。そんな時に西山さんとマガジンで意気投合したことは今もいい思い出で、西山さんが塾からいなくなった後も、快進撃を続けるマガジンを見るたびに「西山さんは今もマガジン読んでるかな・・いや、シュッとしてる西山さんだから、きっとヤンマガに移行しちゃったかな・・」なんて想像するのでした。

父と少年マガジン

マガジンが破竹の勢いで盛り上がっていた一方、我が家では事件が起きていました。
ここでやっと、冒頭に書いた元気な我が父の登場です。

ちょうどマガジンが首位になった1997年頃に、我が家はある事情で練馬区の東大泉から大泉町へと近距離の引っ越しをしたのですが、その引っ越しのどさくさに紛れて、父が私のとっておいた数百冊のマガジンを捨てていたのです。

駐車場の倉庫に入れておいたという父の適当な嘘を真に受けて引っ越し中に現物を確認していなかった私は、半年くらいしてからマガジンがどこにも無いことに気づき、父に問いただしました。
父はずっと「覚えていない、どこかにあるんじゃないか」の一点張りでしたが、家の隅々まで探しても見つからない。
何日もかけて問いつめると、とうとう捨てたことを告白しました。

「あんなものもう読み返さないだろう。邪魔じゃないか」
と、謝らずに怒り始める父の言葉は私の耳に全く入ってきませんでした。
ただただ、西山さんからもらったマガジンはもうこの世に無いという事実が悲しくて、私は一晩中泣きました。勝手に捨てた父への怒りがとめどなく溢れてきて、昂る気持ちを抑えるために、夜な夜な部屋で泣きながらスチール製のゴミ箱を殴り続けてボコボコにしたことだけ覚えています。今思うと、さすが80.90年代のマガジンで育っただけあって、拳を無駄に使いがちです。

基本的に謝るという概念を知らない父ですが、この時ばかりは私の尋常じゃない様子をみてまずいと思ったのか、それ以降はマガジンの保存を容認するようになりました。

その後あらためてたまったマガジンは、以前のnoteにも書きましたように、全て現代マンガ図書館に寄贈し、のちに京都精華大学マンガミュージアムへと引き継がれていきました。
私がマンガの保存に人並以上の想いを寄せるのは、この時の父との確執の影響が強いのかもしれません。

父と私

あれから数十年の時が過ぎ、2023年。
高校生の私は40代になり、ジャンプで仏像を彫って展示しています。
あの時マガジンを捨てた父はガンになり、昨日は急な尿もれが起きていることを、主治医の先生から手術の説明を受けている15分の間に、3回も報告していました。
3回目の父からの訴えを聞いた先生は一瞬考えた後、シュッと新しい誓約書(拘束同意書)を取り出し、父にサインを促しました。そして父がサインに集中している隙を狙って、私に小声で
尋ねてきました。
「お父様、認知症が入ってますか・・・・?」

確かに父はぼけ気味ですが、人の返答を聞かずに何度も同じことをしつこく聞いてくる癖は25年前に私のマガジンを捨てた時からずっと変わっていません。

とは言え、家族にとって父のしつこい性格は長年のデフォルトだったので、主治医さんに耳打ちされて私は正直、二度驚いてしまいました。
一度目は認知症と疑われたことに。
二度目は、認知症を今まで疑ったことのなかった自分に。

父から20年近くの間「なあ、アニメ(父は何度訂正してもマンガのことをアニメと言い間違える)の図書館って何なんだ。それで生きていけるのか」と同じことを聞かれ続けてきた私は、すっかり麻痺してしまっていました。

会うたびに父が私にくれる大量の介護専門学校の資料は、一ページも読まずにゴミ箱へ直行です。(行く気が無いと何度言っても聞かないので・・・・)
マガジンを捨てられて泣いた私が、大人になって父のくれる冊子を読まずに捨てるようになるなんて、なんだか皮肉なものです。

マガジンを捨てた時の父は、問い詰めた結果あまりにも悪びれずに「捨てたかもしれない」と答えていました。認知症のメカニズムを詳しくしらないので、40代で発症したまま20年以上も進行しない低空飛行の認知症というものがあるのか分かりませんが、
もしかしたらあの時の父はマガジンを捨てたことを本当に覚えていなかったのかもしれません。

一見物分かりが良さそうな風体をしているのに、自分がこれと思ったことを譲らないし、納得がいくまで何度でも問い直す。

その父の性質は私に丸々引き継がれていると日々実感しています。
マガジンの保存にこだわり続けていたら現代マンガ図書館に出会い、マガジンだけではなくマンガ文化そのものの保存に思いが至るようになり、こじれにこじれた結果、マンガで仏を彫るまでになってしまいました。
血はこわいものです。

いただいたサポートはお米を買って日々の生きる糧にいたします。