ワークショップ第22回『ゲームは悪か』[20220214-0227]
こんにちは。ジェイラボ表現研副部長の西住です。
今回のワークショップのテーマは「ゲームは悪か」でした。内容としては悪側二人と善側二人に分かれ、自分の思想とは無関係に意見を提出するという形をとっています。
こういう議論になるとまず始まるのが善悪の定義です。
各々の意見は大きく分けて次のとおりです。
①個人の社会的な成功要因となりうるかどうかで善悪を分ける
②社会の利益になるかどうかで善悪を分ける
③コミュニケーションの促進剤となることが善
④自分と向き合って生きることが善
善悪を考えるとき、それが個人の好き嫌いを表すことに妥当性があるのか、という話も出ました。確かに、何かを議論の俎上に載せる場合、人それぞれで終わってしまうと全ての議論が終了してしまいます。WSで何らかの善悪を語るには、そこにある程度の公共性が考慮されることは必須であると思いました。
次にゲームが悪かどうかです。
細かい意見は沢山ありましたが、ここでは4人の意見を大雑把にまとめてみます。
①の場合、ゲームは他の娯楽と比べても大幅に時間を奪われるため、社会的成功から大きく遠ざかることになる、よって悪であるという意見でした。
②の場合、今や人間がゲームを通して、コンピュータという無人の労力で他人の報酬系に歪な介入を行い、支配することすら可能になりつつあるため、ゲームが人を搾取するツールとして機能し、社会の利益から大きく逸脱していく危惧がある、よって悪であるという意見でした。
③の場合、ゲームは完全にコミュニケーションツールとなっており、現代では必須と言えるオンラインコミュニケーションを学ぶことができる、また正確な情報伝達技術も学ぶことができる、そして日本に留まらず海外の人間ともコミュニケーションが取れる、このようにゲームはコミュニケーション形成に大きく寄与している、よって善であるという意見でした。
④の場合、ゲームは鑑賞とは異なった次元の身体性があり、ゲームがもたらす追体験によって人生と向き合う実践が可能となる、よって善であるという意見でした。
個人の利益としては、ゲームには有益な面があり、私自身も一生ゲームに触れながら生きていくとは思いますが、社会の利益というものを突き詰めて考えていく限りでは、このまま自由に放置していると、善の方向に振れていくことは難しいのではないかと思います。ゲームが進歩していけば、人間をハックする素材にもなりかねないからです。ただし善悪の定義と同様に、社会の利益という概念もなかなか多様性を含んでいるので、解釈次第ではハックされることすら社会善という理屈もあるはあるでしょう。定義が絡む話は難しいものです。
昔に比べてゲームが槍玉に上げられる機会は減ったと思います。。従来論じられていたゲーム脳や、暴力性を助長する等の話は、あまり聞かなくなりました。しかし現在では、それとはまた別の次元の善悪が出現しているのだな、と思わされたWSでした。
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