【表現研】CLAMP作品の「自己プログラム化キャラクター」について

この記事には作品のネタバレが含まれています。

 東京バビロンがアニメになるということで、昨日今日とCLAMPの初期作品を思い返していた。そこでふとタイトルのようなことが浮かんできたので記事にしてみたいと思う。

 CLAMPの作品と言えば、思考回路が普通ではないキャラが多いのだが、初期作品で見られた「自己プログラム化キャラクタ-」は、とりわけ狂気的な思考の持ち主だった。

 自己プログラム化キャラクターとは、その名の通り自分を「プログラム」化している人物である。彼(彼女)は、自分に何かしらのプログラムを打ち込んでいて、自分ですらそれに絶対逆らえないという謎の縛りプレイをして生きている。

 これは「信念」とは異なっている。漫画の主人公が持っているような信念は、その概念に幅がある。「困った人を助けたい」、「勝負に勝ちたい」、「卑怯な真似はしない」、「弱者の味方」、「仇を取りたい」、このような信念は抽象的であるため、具体的な行動は時や場面に応じて変わりうる。複数の信念を持っている場合は、それらを秤にかけ、片方の信念は置き去りにされることもあるだろう。また、それを放棄することも、新しい信念を上書きすることもあるはずだ。そうしてキャラクターは成長していく。

 一方、「プログラム」は全く幅がない。プログラムは単一で、具体的で、いかなる場合も、自然には変更されない。決められたとおりの実行(行動)があるだけである。何に差し置いてもそれを遵守するしかない。逆らうことは出来ないのだ。

 プログラムとは、人間が機械に与える命令である。機械は自分の意志で自分にプログラムを与えているわけではない。機械がプログラムに逆らえないのは、上位者が存在するからだ。

 しかし、この「自己プログラム化キャラクター」は、自分で自分に命令を与えているわけである。自分で与えた命令は、書き換えるのも逆らうのも、当然自由だ。それなのに、なぜか逆らわない。逆らえない。仮に二重人格であれば上位者に逆らえないという説明はできそうだが、そういう雰囲気ではない。人格がひとつであるにも関わらず、なぜか自己プログラムに従順なのだ。しかもその理由は明らかにされない。とにかくそうである、という以外の説明はなされない。理由があれば合理的と言えるかもしれないが、理由がないので非合理、つまりは「狂気」である。

 信念には「芯」がある。

 自己プログラム化には「狂気」がある。

 CLAMPはその手のキャラクターを描くのが抜群に上手い作家だった。

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