【BL連載】雨だれに傘を差す10
10
自分を引きずるように自宅へ戻ると、買った食材を冷蔵庫にしまえないまま、智理はしばらくちゃぶ台に倒れこむ。
どうして、こんなに自分を持て余すのだろう。木村は……木村だったら、どう振る舞うだろうか。
あの憎らしいほど輝いている笑顔は、やはり手にすることができない。そう打ちのめされた気分だ。
ピンポーン
チャイムが鳴った。
智理は鈍る足を叱咤して、サンダルをひっかけ引き戸を開ける。
案の定、スーツ姿の宮が立っていた。
玄関の敷居を跨ぎ、興味津々でぐるりと昭和家屋に視界を巡らせる。
「前に一度来たことがあるけど、なかなかすごい家だよね」
祖父母が昭和初期に建てたこの家は、現代に珍しい土間や縁側がある。水場は色とりどりのタイルが敷かれ、洋間はないが和洋折衷なレトロな雰囲気に包まれていた。小さい時から智理も大好きで、過度なリノベーションはしていない。
「結衣に見せたいくらいだよ」
六歳になる愛娘の名前に、智理は体の後ろに回していた両手を握った。
宮が自然と出す家族の話題は、どう反応していいのかわからない時がある。
「『蕾』は?」
「納戸に置いてます。箱に入れているから状態は悪くなってないと思うんですけど」
土間へ入った宮を、智理は玄関から外へ案内する。暗くなった空を見上げた。ポツリと水滴が顔に落ちる。まだ雨にはならないが、夜にかけて本降りになるだろう。
庭を通り、水が張っていない池の小さな橋を渡り、朽ちた水道の奥が二階建ての離れになっていた。
しばらく開けていない固い引き戸を慎重に開けると、埃のにおいが鼻をくすぐる。扉のわきにあるスイッチをつけると、中央に垂れ下がった裸電球が室内を照らした。
智理の作品がむきだしのまま、折り重なるように立てかけられている。その奥に大きな箱がいくつも詰まれていた。
指先が落ち着かない。視点の置きどころがわからずに、智理は地面を見下ろした。
「すばらしいね、宝の山だ。個展はしないのかい?」
宮は感嘆したように納戸を見回す。しかし、声は硬質で冷気を纏っていた。称賛しながら、宮は智理の作品が好きではないと、端々で告げている。
わかっていても、その言葉が、声が、智理の胸を抉る。
「え、と、『蕾』は……」
カンバスの群れを脇目に奥へ進み、智理たちは箱の山へ近づく。積まれた一番上の箱に智理は指をかけた。接した壁に立てる。ポスターほどの大きさだ。
埃をかぶった蓋を持った。逡巡に、智理の手は動かない。
智理が一瞥すると、宮は急かすように微笑んだままだ。
まるで自分の痴態を晒すようで、智理は首が熱くなる。
蓋を開くと、そこには中学生の自分を彷彿とさせる少年がいた。物憂げに遠くを見つめる瞳、鼻梁と顎の曲線は艶然として、子どもから大人へ羽化する様が窺える。アンバランスな魅力。この作品が初めて世に出た頃は、そう評された。
一歩後ろから宮も『蕾』を見ているのだと思うと、振り返ることができない。宮がこの作品を智理の前で目にするのは初めてではない。しかし、何度経験しても順応することはできなかった。闇にすがるように、智理はぎゅっと目を瞑る。
智理のポケットの中でスマホが鳴った。通知ではない、着信だ。
慌てて智理はスマホを取り出す。送信主は『木村 全』と表示されている。
智理は顔を上げた。振り返ると、宮が首を傾げている。
スマホは鳴りやまない。
昨日の今日だ。木村の心配を察知して、智理は宮に短く断ると通話に出た。
『もしもし、智理さん? いまどこ?』
切羽詰まった木村の声が耳に届く。体を包んでいた緊張がわずかに崩れる感触がする。
「どこ、って……家にいるよ」
『は? いや、いないから心配して……』
智理の心臓が痛いほど跳ねた。
予測を確かめるべく、納戸から母屋を凝視する。ぽつぽつとしか降っていなかった雨は、いつの間にか強さを増していた。
いてもいなくても、どちらにせよ智理は歓喜し、そして絶望するだろう。
玄関から人影が出てきた。背が高い、見知った体型。
木村だ。
遠くに見えるその影が、智理の方を向いた。納戸の灯りに気付いたのだ。傘を手に走ってくる。
来るな!
カラカラの智理の喉が叫ぶ前に、木村は池の橋を渡って迫る。
「……全?」
後ろから宮の訝しむ声が聞こえた。驚いて振り返ると、宮が智理の隣で目をすがめている。
混乱している間に、木村が黄昏時の暗い庭から納戸の灯りのもとへ辿りついた。木村の訝しむように寄った眉根に、智理は中断された焦りを思い出す。
「あっ、待――」
完全にタイミングを逸した制止だった。
はあ、と大きく息を吐き、木村が二人の顔を確認する。
木村の声は、通常よりさらに掠れていた。
「――白さん」
「え」
木村の呟きに、智理は反射的に宮を見た。
宮は何ということはないと笑って、智理に穏やかな視線を置いている。
「ほら、前に話しただろう。傘屋に幼なじみがいるって」
それだよ、と世間話のように宮は告げる。
木村は拗ねた子どものように、唇をすぼめていた。見たことのない表情に、智理は恐れをおぼえる。そこからどんな言葉が吐き出さされるのか、考えただけで消え入りそうだった。
「なかなかない偶然だね。全、今はこの辺に住んでるんだな」
「……山梨の工場にも近いから」
いつもの優しく弾んだ声音はどこへやら、木村は抑揚のない低い口調で答える。幼なじみというには、二人の間に距離を感じる。
「白さんは、どうして」
「ああ、瑞行先生の個展を智理に手伝ってもらっていてね。今日は先生の作品を借りにきたんだ」
ね、と宮が智理の肩を抱く。突然のことに、智理は硬直した。
木村の顔が険しくなる。
どうやら木村と宮には複雑な想いがあるらしい、と智理は二人を交互に見つめた。
木村の睨むような視線が、宮から納戸へと移った。何度、雨谷宅に来ていても、今までずっと入れたことのない場所だ。物珍しいのだろう。
木村の表情が、得も言われぬものへと歪む。
「あ」
智理は振り返る。
失念していた。
箱の蓋を開けた『蕾』が、納戸の壁に立てかけられていた。
木村は、それが智理だと一瞬でわかったのだ。
智理の肺が呼吸を忘れた。
羞恥ではない。恐怖だ。
手放したくない。
離れないでほしい。
宮は呆然とする智理たちを横目に、立てかけられた『蕾』の額縁を撫でた。
「智理、ありがとう。個展終了まで借りて行くと思うけど……いいかな?」
甘い響きが、今は棘を突き立ててくる。
自分に――いや、木村に。
智理は彼らの過去を知らない。だが、それが二の足を踏む要因にはならなかった。
「いいです。借りて行かなくても」
智理の返答に、宮はわずかに目を細める。
体内の奔流に身を任せる。口を開くと、意識せずとも智理は言葉を吐き出せた。
「差し上げますよ。宮さんにでも、主催者の方にでも。俺にはもう、それはいらないから」
啖呵をきる。後々募るかもしれない後悔を憂いている隙間などない。
そう宣言すると、智理の視界に彩りが戻った。埃ではない何かが輝いていて、木村の泣きそうな瞳にきゅっと胸が締めつけられる。
階段を一気に飛び降りたような爽快感。なんだ、怪我せずできた、と世界が壊れていないことに安心する。
宮のうすい唇が引き結ばれた。にこやかに綻んでいた頬が、鋭くなる。
「……先生との絆を、そう易々と手放すなよ」
苛立ちがこもっていた。宮がこうした感情を表に出すのを、智理は初めて見た。
そうだな、と智理の冷静な部分が納得する。きっと、そのとおりだと思う。
それでも、もうその絆に囚われなくていい。
時間は動いている。もうこの手には、雨を受け止めるための傘を持っている。
宮は手早く『蕾』を箱に納めると、それをビニールで包んで紐で持ち手をつけた。さほど大きな作品ではないので、そのまま車へ持っていくのだろう。
振り向くと、もう宮はいつもの宮だった。
「とにかく、今は借りておくよ。打ち合わせについては、また連絡する」
納戸の入り口まで来ると、宮は俯いている木村を一瞥した。
「全も、またな」
「……はい」
宮の足音が聞こえなくなると、今度は大きな嘆息が納戸に響いた。
智理は木村を見上げる。木村は両手で顔を覆い、苦しそうに項垂れていた。
(続)
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