【BL連載】シグナル・レッド04

 鷲谷の投稿から二週間経つ頃には、日々果はいつもの日常を取り戻しつつあった。ファンのほとんどは一般客に紛れるほどになり、一部の熱烈なファン以外は鷲谷の名前が出ることがなくなった。
 疲弊して鷲谷アレルギーになっていたオレや茅野ちゃんに、ようやくホッとできる日々が帰ってきたんだと実感する。先週より心がいくらか軽くて、鏡の前で笑うのが億劫ではなくなった。
「いらっしゃいませ」
 梅雨前の蒸し暑い日、ガラス扉をくぐって入ってきたのは眼鏡の女性だった。落ち着きなく店内を見回し、それからフルーツサンドが並ぶカウンターまでやってくる。こういう動きをするのは鷲谷のファンが多い。
 無意識に客を値踏みした自分に嫌気が差しながら、オレはできるだけ柔らかい笑顔をつくる。
「ええと、フルーツサンド二つと、イチゴサンド三つ、ください」
「かしこまりました」
 包装されたフルーツサンドを取り出して、おしぼりや紙ナプキンと一緒に袋へしまっていく。
「あのぉ」
 間延びした声に顔を上げると、眼鏡の客はどこか困ったように眉を下げた。
 嫌な予感を抱きつつ、オレは一つ息を吸って腹の底に力をこめる。
「はい」
「ここのお店のオーナーさんでしょうか」
 展開の予想をいくつかして、オレは「はい」と頷いた。
「すみません、注文を……お願いしたいのですが」

 眼鏡の女性がイートインの客を気にするので、店内を濱に任せて外に出た。余程のことがない限り――いや、あっても――、裏に誰かをあげることはしたくない。
 入り口からも裏口からも離れた私道に来ると、女性は鞄のカードケースから名刺を取り出した。ピシリと伸びた背が斜めに折れる。
「わたくし、オフィスLDの島宮と申します。鷲谷の件で色々とご迷惑をおかけして申し訳ありません」
 オレは戸惑いつつ「ご丁寧にありがとうございます」と名刺を受け取る。高級そうな紙で、銀箔のロゴが押されている。高そうだ。
 島宮と名乗った女性の肩書きは『アーティスト管理部 マネージメントデスクサブチーフ』というものだった。偉いのか偉くないのかいまいちわからなかったが、鷲谷が所属する事務所の人間ということだろう。
「いえいえ、おかげでお客様が増えてありがたい限りです」
 頭を下げる島宮に、オレは社交辞令を述べた。ここでどれだけ迷惑しているか語っても、明るい未来に近づくとは思えない。
 テンプレートな挨拶をして、島宮は「本当に」とさらに頭を低くした。
「混乱してさらなるご迷惑をおかけするといけないので、鷲谷も来られなくて、それでわたしが」
 懸命な判断だ、と鷲谷に対して嫌味を言いたい気持ちとは別に、島宮の手に提げられた日々果の袋に愛おしさが灯る。ふらりと立ち寄って、気まぐれに宣伝して、それで終わりだと勝手に想像していた。芸能人の愛着というものは大抵嘘だと侮蔑していた。
 バツが悪くなり、オレは足元の砂利に顔を向ける。鷲谷のせいで起こったことが事実であっても、鷲谷が日々果の客の一人であることも同じだけ変わりのない事実だ。
 店のカウンターでするように、オレは島宮に微笑する。
「それでも食べていただけるなんて、光栄です」
 だって、鷲谷はSNSに書こうと思えるだけ、自身のファンがあふれても食べたいと思えるだけ、轍のフルーツサンドのファンなんだ。
 島宮はオレンジの口紅をひいた唇を持ち上げたが次の瞬間、一文字に引き結び眼鏡を押し上げた。
「それで、その……とても申し上げにくいのですが」

「デリバリー?」
 閉店して島宮からの依頼を告げると、轍は頑固親父の皺を眉間に刻んだ。
「撮影現場の差し入れにしたいんだと」
 オレは電卓をカタカタと叩く。
 今日もいい売上だ。包装用ビニールの在庫が少なくなっているから、倉庫から出さないと。
 あとは、地方紙から広告について問い合わせが来ていたのと、新規アルバイトのための求人づくりと、家賃と……あ、引き落とし用口座に金移さないと。これ絶対、何か忘れてるな。
「フルーツサンド二十個、イチゴサンド二十個」
 その合計額を電卓で叩き、轍に見せる。まあ、それで轍が首を縦に振る人間だとは思っていない。
 眉間の皺の後は腕を組む。生まれる時代を間違えたんじゃないかってほど、昭和の雰囲気がした。
「引き受けたのか?」
「いや、スケジュールとか食材の確保とか確認してからってことにしてる」
 ちなみに週明けの月曜日、とカレンダーをペンで示す。今日が木曜日だから、食材の発注をしないと間に合わない。もう大体の目星はついていて、あとは轍のゴーが出るだけだったりするが。
 轍はオレにブラックコーヒーの入ったカップを差し出して、隣の椅子に腰かけた。夜の涼しい店内に、手と心が温かい。
「オレはさ、轍」
 日々果の袋を手に、頭を下げて帰っていった島宮。オレは彼女に感じたことを、轍に伝える。
「有名人御用達とかどうでもいいけど、でも美味いって食べてくれて、他の人にもすすめたいって気持ちは、やっぱ嬉しんだわ」
 正直差し入れがどんな意味合いを持つものかも、どれほど誇れることかもわからない。
 それでも、鷲谷が日々果のフルーツサンドを自分の周りにいる人たちに食べてもらいたいと思ったことは、確かだと思う。
 そして、轍のフルーツサンドが美味い美味いと食べられる様を想像する。
 これ以上の幸福はない。
 轍はどこか照れくさそうに額を掻いた。
「そうだな。美味しいと食べてくれるなら、つくるまでだ」
 根底にある願いは一つ。それを轍と共有できていることが嬉しい。
 オレは、轍のフルーツサンドを美味いと言われることがしたくて、この店を始めたんだから。

(続)

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