【BL連載】いつかの記憶、いつかの未来04
城慧一・2
「菊ちゃんはさ、轍と初めて対面した時どうだった?」
オレの質問は、菊ちゃんの丸い目をさらに丸くさせる。店に客がいない隙間だったから、轍の名前を出したが、それも菊ちゃんにとっては驚きだったのかもしれない。
「あらあら、また今回は。どうしたの、急に」
「んー……」
子どもをあやすような口調になんだか情けない気持ちになるが、それと同じだけ甘えたい気持ちにもなる。大の大人だという事実をすっ飛ばして、菊ちゃんの前では高一の頃の自分になる瞬間があった。社会的な責任を持ち、自分たちの店を経営しても、正直、オレはうまく大人になれている気がしない。
今だって。
この、燻ぶって黒い煙を吐きだす心をどう洗い流せばいいか、オレはまだわからない。
***
「ふと、思い出したんだが」
轍がそう前置きをして話し始めるのは、とても珍しいことだった。
歩ちゃんとメシを食いに行った夜のことだ。手にはしっかり有名パティスリーのカスタードプリンを持って帰ってきた。ちょい硬めで卵の味がしっかりするヤツだ。
酒が入っているのか、轍は体をふらふらと揺らしてプリンを冷蔵庫にしまい、水をぐいと飲む。一息ついてから、轍はぼんやりとそう呟いた。
オレは風呂上がりでタオルドライをしている最中だったが、そのまま轍の向かいに座って続きを促す。
「むかし、歩と近くのコンビニにおかしを買いに行ったんだ」
轍の言う『むかし』がいつのことか想いを巡らせる。小学校低学年くらいだろうか。歩ちゃんが幼稚園児で、二人しててとてと近くの店に行ったんだとしたら可愛いことこの上ない。
轍の幼少期の写真は見たことがある。小さい頃から背が高く、肥満ではないが大きい印象を受けた。まっすぐな眉で不愛想なため、知らない人間が見たらガキ大将やいじめっ子という単語を浮かべるかもしれない。
「歩は当時、ビスケッティのミルク味が大好きで、それがほしかった」
ビスケッティとは懐かしい。オレたちが子どもの頃に一世を風靡したお菓子だ。さくさくふわふわで、もったりした甘さが人気だった。男女問わず定番品だったが、可愛らしいパッケージもあり遠足の際、女子のマストアイテムになっていた。オレは大きめのチョコチップが入ったチョコ味が大好きだった。
ビスケッティのことを一時間は話したかったが、轍の言いたいことはそれじゃないだろう。ふらふらと記憶の中を彷徨う轍を迷わせてはいけない。
「ふんふん。で?」
「ちょうどビスケッティ・ミルク味が最後の一つになっていて、そこにビスケッティが好きなクラスメイトのひなちゃんとサイ子が来て……」
轍の声が、そこで淀んで落ちる。
ひなちゃんとサイ子がどんな奴だか知らないが、女子だろう。
一つしかないビスケッティ。それを求めて来たであろうクラスメイトの女子。そこまで行くと、結末が見えてくる。
「……歩のために、俺は急いでビスケッティを確保した。すると、ひなちゃんが泣きだした」
もう二十年は過去の話だろうが、オレの胸がキリキリと痛みだす。
轍は優しさから行動したのだとわかるから、やるせなくて仕方なかった。
「そうしたら、サイ子がすごく俺に怒ったんだ。当たり前だ。友達を泣かしたんだから」
すでに起こった地獄絵図に、オレは早くコンビニ店員が来てほしいと切に願った。轍以外が全員泣いて轍だけが悪者になるのではないかと本気で不安になってくる。
続きの催促もできずに、オレは轍の茫洋とした顔を見つめる。轍は淡々と次の言葉を零した。
「『どうしてアンタみたいな奴が、ビスケッティを買うのよ』と怒られた」
あ。
心に一粒の理解が落ちる。
すでに起こった地獄絵図。二十年は過去のこと。
違う、これは今のことだ。今の轍が、店の名前と一緒に顔を出せない轍が、まだ抱えているものだ。
「ああ、あれは結構ショックだったんだな、と、ふと思い出したんだ」
なんだ、これ。可愛い子どもの思い出話じゃない、小さい頃の苦い失敗じゃない。
俯瞰で微笑ましく見ていた頭が、急に熱を発する。何してんの、サイ子。何してんだよ。いや、サイ子だって友達のために怒ったのは重々理解してるが、いや、それにしたって。
「まあ、あれがなくても俺は表に出たい方ではなかったが」
いやいやいや、この年まで引きずるほどには傷だぞ、それ。
轍は、話し終えるとアルコールが入っているためか、ゆるやかな足取りで風呂場へと消えていった。
しかし、残されたオレはしばらく怒りが消えずにテーブルの木目をずっと睨んでいた。
カスタードプリンは美味かったが、ずっと怒っていたのであまり味は憶えていない。
***
当の轍が落ちこんだり怒ったりしているわけではないのに、オレだけ憤慨するというのもおかしくて、ここ二、三日ずっと悩んでいる。代わりに怒るというのもわかるが、それで轍が出すべき感情を引っこめてしまうなら本末転倒だった。
菊ちゃんに包み隠さず話すことも憚られ、唐突に唐突な質問をしたわけだ。
「轍くんがフルーツサンドのことを訊きに来てくれた時はね」
ふふふ、と菊ちゃんは少女のように微笑む。
オレはフルーツサンドをつくっているのが菊ちゃんだとつきとめ、アポをとった時のことをよく憶えている。他の調理師たちは、男子高校生が身をのりだして何を言っているんだ、と訝しんでいた。友達間の罰ゲームとか、大人をからかっているとか、そう感じたのかもしれない。
その中で、菊ちゃんは戸惑いつつも「いいわよ」と快諾してくれた。
「正直に言うとちょっと驚いたけど、でもどんな子でもフルーツサンドがおいしいって言ってくれるのは嬉しいのよ。轍くんみたいな子でも、可愛らしい女の子でも、年配の先生でも、誰でも」
そうでしょ?
菊ちゃんの問いかけに、オレは同意しかできなかった。
そりゃそうだ。
どんな容姿だろうが、どんな性別でどんな年齢だろうが、美味いという言葉は最大の賛辞だ。
何十回何百回と実感してきた。頭にも心にも、刻んでいる。
轍だってそのはずだ。どんな人間だろうと、フルーツサンドを美味いと食べてくれることが一番だと、ずっと語っている。
それは、裏を返せば轍だってそう思われているはずなのに、轍はそれを認めることをしない。できない。自分から他者を認めることはできるのに、自分が自分を認めることができないでいる。それはそれ、これはこれ、と。
少しずつ、少しずつ轍の中にある固い錠は解けてきている。焦らなくていい、とオレは何度も自分に言い聞かせてきた。
だけど、昔話を聞いて噴火した頭は、早く轍を連れだしたいと言う。殻とか壁とかぶち破って抱きしめたいと思う。
「うまくならなくてもいいのよ」
菊ちゃんは両手でジャスミンティーの入った紙カップを持つと、小鳥のように口をつけた。
抜け落ちた主語を探して、オレは首を傾げる。
「この年になっても、怒ったり落ちこんだり忙しないんだもの。無理に収めようとしなくていいの」
今日のお茶もおいしい、と菊ちゃんは嬉しそうに瞼を伏せた。
オレは恥ずかしくなって、見ていないのをいいことに盛大に顔を歪めた。きっと情けなさでいっぱいの表情だろう。
実直で頑固な轍に比べて、オレは器用で柔軟な性質だと思っている。思っているからこそ、自分がそう振る舞わなければと思っていた。そうして舵を取ってきたのだから。
虚勢を張るオレを見透かして、でも、そんなオレを慰めて、特別なことではないと笑ってくれる。
「菊ちゃん、カウンセラーにならないの」
「だめよ、そうしたら食堂で働けないじゃない」
ああ、やっぱりオレも轍も、菊ちゃんには敵わない。
(続)
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